【説教要旨】
2020年8月30日(日)
ルカによる福音書17章20、21節
ルカによる福音書17章20、21節
「神の国はあなたがたの間にある」
Ⅰ 手の働きを確かなものに
自分が生きていることに対して何らかの応答があるとき、あるいは、自分が力を注いだことが実を結ぶとき、喜びを覚えます。その反対に、自分がしたことに関心が向けられず、周囲からの応答に乏しいときには、落胆を味わいます。とくに今、新型ウイルスへの対応を迫られ、さまざまに注意を払うものの、はたしてそれで大丈夫かというと、誰もたしかな答えを得しにくい状況が続いています。世間の漠然とした重苦しさ、息苦しさは、これまであったはずの人生の手応えが見出しにくくなっている表れではないかと思います。
それですから、旧約聖書の信仰者がささげた祈りの歌があらためて心に響きます。
わたしたちの神、主の喜びが
わたしたちの上にありますように。
わたしたちの手の働きを
わたしたちのために確かなものとし
わたしたちの手の働きを
どうか確かなものにしてください。
(詩編90編17節)
神さまは、わたしたちの人生に応答してくださいます。神さまを信じる人とは、「手の働きを確かなものにしてください」と、神さまに祈ることを知っている人です。
Ⅱ 神の国はいつ来るのか
ファリサイ派の人々は、当時の信仰熱心な人々でした。「ファリサイ」という言葉は、「分離」という意味の言葉に由来していると言われます。彼らは、ユダヤを支配していたローマ帝国の風習、ギリシア・ローマ世界の文化や宗教の影響から、自分たちを清く保とうと努力していました。神に正しいと受け入れていただくためです。そのために聖書の掟(律法)をよく研究し、実践しました。そうすればやがて、神はメシア(救い主)を遣わしてくださり、この世の支配者を打ち倒してくださる。そして、神が新しい正義の世界を建ててくださる。その時には、自分たちは神に忠実に従うものとして栄誉に与かることができると信じていました。彼らが待ち望んだ「神の国」は自由、平和、繁栄、救いなど、まさに彼らにとって祝福に満ちた人生の目標、自分たちの理想の世界の目標でした。
しかしながら、その「神の国」が彼らには見えてこなかったのです。言い換えれば、神さまを信じて待ち望んでいるのに神さまの御業が見えない、自分たちの人生の応答が見えない、自分たちの救いが、希望が見えないのです。「神の国はいつ来るのか」(20節)と彼らがイエスさまに問うたことを、彼らの不信仰や理解不足だと批評するだけでは終わらないと思います。彼らの姿は、わたしたちが何を望んで、何を見ているのかという問いかけでもあります。
Ⅲ 神の国はあなたがたの間にある
イエスさまは、ファリサイ派の人々の質問に次のようにお答えになりました。
神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(20、21節)
「目に見える形」という言葉には、「観察する」という意味があります。この見方には、原因/結果、刺激/反応といった考え方が深くかかわります。『自分がこれをすると、相手(神さま)はこれをしてくださる』、あるいは、『相手(神さま)がこれをしてくださるために、自分はこれをする』といったような考え方です。わたしたちも抱きやすい思いです。しかし、イエスさまは、そのような見方からは神の国(神の恵みの支配)は見えないと告げられました。
これに対してイエスさまが促されたのは、まったく新しい、別の視点でした。(「実に」と訳されている言葉は、「見なさい」という意味の言葉。)それは、人間の信仰心や行いとは切り離して、神さまご自身の御心によって成し遂げられているものを見るということでした。『そうすれば、あなたがたもわかるはずだ。神は遠く離れておられない。神の恵みによって新しく生かされている人々がいる。神の国はたしかに存在している。あなたがたの間に!』このイエスさまの言葉を受け入れる所に、イエスさまとの関係が成り立つ所に、神の国は実現します。神さまがまったくご自分の御心として人間を愛し、罪を赦し、死から救い出すために、イエス・キリストを遣わされたからです。イエスさまは神の国を告げ知らせ(4:43, 12:32)、人が顧みない場所にも足を運び、人が目もくれない人々を探して、癒し、救われました。十字架で死と復活を通して、神の変わらぬ愛を打ち立てられました。このイエス・キリストによって、神の国はわたしたちの前に開かれているのです。
わたしたちは今、教会(小隊)において、イエスさまの霊である「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」として神の国を知ることができます(ローマ14:17)。そして、イエスさまと共に生きる、それぞれの生活や人生もまた神の国です。神さまがわたしたちの命に応答してくださる世界はすでに始まっており、わたしたちを招いています。
… わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。 … あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネの手紙一1章1~4節)