8/30/2023

この日も主と共に【968】

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(ペトロの手紙一5章8節)

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ペトロは、教会の《長老たち》と《若い人たち》をそれぞれに励まし(1、5節)、最後にもう一度、教会全体としてまとまり、信仰にしっかりと立つようにと励まします(8~11節)。その際、ペトロは三つの表現を使います。
①《身を慎》む。心と体に自制(セルフコントロール)を効かせること。
②《目を覚まして》いる。目に見えない危険に警戒(アラート)すること。《ほえたける獅子》が獲物を探すように、《悪魔》はイエス様を信じる者たちを神様から引き離そうと狙っていると、ペトロは言います。
③《悪魔に抵抗》する(9節)。自分の守りを固めること。
ただし、《信仰にしっかり踏みとどま》るためには、自分の意志の強さ以上のものが必要です。それはイエス様を信頼し、イエス様に守られることです。また、同じ苦しみに遭う《信仰を同じくする兄弟たち》を知り(9節)、共に信じていくことです。

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天の父なる神様、目に見えないものにも注意を向け、《信仰にしっかりと踏みとどま》るものとならせてください。信仰によって《兄弟》と呼ぶことのできる教会・小隊の一人一人を守り、共に御子イエスの力強い支えにあずからせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/28/2023

この日も主と共に【967】

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(ペトロの手紙一5章7節)

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ペトロは、教会の若い人たちに向けて、《思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい》と語ります。《思い煩い》とは、当時、キリスト教に対する迫害が起こりつつあり、信じることと実際の生活のはざまで摩擦や葛藤を若い人たちが経験することがあったことを示唆しています。そのような状況を神様にお任せするとは、①《思い煩い》も含め、そのままの自分でイエス様のもとに行くということです。イエス様は重荷を負う者を迎え、休ませてくださいます(参照マタイ11章28節)。そして、②イエス様の言葉によって心の向きを定めるということです。イエス様は、《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。・・・明日のことまで思い悩むな》と言われました(マタイ6章33、34節)。このイエス様が今も生きておられ、小隊・教会の中心でいてくださいます。小隊・教会の礼拝と祈りと交わりを通して、神様の愛と支えが今も届けられています。

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天の父なる神様、心に重荷がのしかかる時に、その重荷をあなたにゆだねる道があることを教えてください。どうぞわたしたちの心を支え、平安をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン(参照詩編55編23節)


8/26/2023

この日も主と共に【966】

あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。(ペトロの手紙一5章1、2節)

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ペトロは手紙の終わりにあたり、教会全体としてどのように歩むべきか、《長老たち》(1~4節)と《若い人たち》(5~7節)のそれぞれの世代に語りかけます。そして、《長老たち》に《神の羊の群れ》を牧しなさいと勧めます。《神の羊》とはイエス様を信じる人たちです。長老は、羊飼いが羊を守るように教会の仲間を支える人です。しかも《強制されてではなく》、《卑しい利得のためにではなく》、《権威を振り回》すためではなく、むしろ、《神に従って、自ら進んで》、《献身的に》働く、《群れの模範》です。理想の高い、難しい務めに思えますが、教会にはすべての頭(かしら)、羊飼いの中の羊飼いである《大牧者(だいぼくしゃ)》イエス様がおられます(4節、参照エゼキエル34章11~16節、ヨハネ10章11節)。《群れの模範》とは、このようなイエス様の言葉を聴き、イエス様と共に歩む人です。そのようなお互いの姿を通して、神様の励ましと力を分かち合うことができます。

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天の父なる神様、わたしたちの小隊・教会を、またわたしたちがそれぞれに育んでいる交わりを、《神の羊の群れ》として守り、導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/25/2023

この日も主と共に【965】

神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。(ペトロの手紙一4章19節)

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ペトロは、イエス様にならって、①《同じ心構え》になり(1節)、②《互いに仕え》(10節)、③《キリストの苦しみにあずか》るように(13節)と語ります。さらに、④《真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい》、すなわち、神様を信頼しなさいと勧めます。イエス様は十字架の上においても、神様にご自分をまったくゆだねられました(参照ルカ23章46節)。神様は苦しみを無くすよりも、わたしたちの信仰を本物にするための《試練》として使われる場合があるとペトロは語ります(12節、参照1章7節)。苦しみにあいながら、そこにもなお神様の御心があると信じることは容易ではありません。しかし、それがけっして不可能ではないとペトロが語るのは、彼が《愛する人たち》と呼びかける教会の姿(12節)、《栄光の霊、すなわち神の霊》が留まる人々の姿を知っているからです(14節)。そのような人々が《神の家》を形づくり(17節)、今のわたしたちの教会・小隊に続いています。

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天の父なる神様、御子イエスを通して、あなたの真実を信頼し、あなたにゆだねる道を教え、そこを歩めるよう導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/24/2023

この日も主と共に【964】

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。(ペトロの手紙一4章16節)

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ペトロは、イエス様と《同じ心構え》になり(1節)、イエス様にならって《互いに仕え》るようにと勧めます(10節)。そしてさらに、《キリストの名のために非難され》ることをも喜びとするようにと勧めます(13、14節)。たいていの場合、宗教や信仰はいかに苦しみから逃れられるかに注目します。聖書にもそのような面があります。しかし、ペトロは、苦しみと喜びがイエス様において一つとなり得ることを見出しました。イエス様を信じる人が信仰のゆえに苦しみを経験する時、その苦しみの中でもイエス様と共に生きていると言うことができる。イエス様も神様の御心に従い、苦しみを受けられたからです。そして、《キリストの苦しみ》は《キリストの栄光》につながります(13節)。イエス様は十字架の苦しみと死をお受けになった後に、復活され、まことの救い主とて世界を新しくし、治められます。このようなイエス様と共に生きる人に、《キリスト者》(クリスチャン、キリストのもの)の名が与えられています。

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天の父なる神様、《キリスト者》の名に込められた意味を教え、御子イエスと共に《キリスト者》の道をたどらせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/23/2023

この日も主と共に【963】

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペトロの手紙一4章10節)

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ペトロは、イエス様と《同じ心構え》になるようにと勧め(1~9節)、次に、イエス様にならって《互いに仕え》るようにと勧めます。それは、イエス様の愛に留まって生きることです(参照ヨハネ13章14、15、34、35節)。
そのように勧められる理由は、
①《万物の終わりが近づいている》からです(7節)。これは、世界が破滅するという脅かしではなく、イエス様がふたたび来てくださるという約束を指しています。イエス様に従って生きる人は空しく終わらないというのです。
②それぞれが《賜物》を授かっているからです(10節)。《賜物》は、人それぞれの才能や特技のように見える場合がありますが、実際は神様が預けてくださった《さまざまな恵み》です。また、《賜物》は、《神の言葉を語る》、すなわち福音を伝える働きと、《奉仕》する働きにまとめることができます(11節)。イエス様は今もご自分の言葉と愛によって、イエス様を信じる人を支えてくださいます。

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天の父なる神様、わたしたちの歩みや働きが試みられるときにも、御子イエスによって、あなたの愛と恵みのもとにあることを思い起こさせ、あなたと共に歩む力をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/22/2023

この日も主と共に【962】

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。(ペトロの手紙一4章1節)

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ペトロの時代、イエス様を信じる人々に対して「自分たちと同じような生き方を止めてしまった」という不満が向けられました。しかし、ペトロから見れば、教会を《不審に思い、そしる》人々の生き方は、《人間の欲望》に従い、《ひどい乱行》を伴うものでした(3、4節)。そこでペトロは、イエス様と《同じ心構えで武装しなさい》と語ります。そのような強い表現を使うほどに、イエス様は、わたしたちを神様と共に生きるものとするために、《神の御心に従って》歩まれ、ご自分の十字架の死によってわたしたちと《罪との関りを断》ってくださいました。また、神様は人を愛し、救われるお方ですが、その救いを完成するために《生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方》でもあります(5節)。このようなイエス様と神様を知るところに、自分の心を守り、《残りの生涯》を健やかに生きる道があると、と聖書は語ります。

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天の父なる神様、御子イエスの歩まれた道をたどり、わたしたちも《神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きる》ものとならせてください(2節)。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/21/2023

この日も主と共に【961】

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。(ペトロの手紙一3章21節)

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旧約聖書に記されているノアの箱舟と洪水の出来事は、神が《水》によって世界を一新された出来事でした(創世記6~9章)。ペトロはこの出来事に、イエス様を信じた人々が教会で受ける《洗礼》を重ね合わせます。《洗礼》は、それ自体に《肉の汚れ》、罪を取り除く神秘的な効力があるというわけではありませんが、復活されたイエス様から新しい命を与えられ、罪に囚われた古い自分が終わり、新しい人となり、《神に対して正しい良心を願い求め》て生きることを公に示すものです。ペトロは、さまざまな価値観、宗教、力に囲まれている各地の教会を思いやりながら、イエス様を信じ、《洗礼》を受けたあなたがたは確かに新しい人生を生きており、神の救いの中にいると励まします。救世軍は、他の教会のような仕方で洗礼を実践していませんが、イエス様によって新しく生きる道のりを同じように見つめ、追い求めています。

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天の父なる神様、わたしたちに新しい命と人生を可能にする、あなたの救いの恵みを受け入れて歩むものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/19/2023

この日も主と共に【960】

霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。(ペトロの手紙一3章19、20節)

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イエス様はわたしたちを救うために、十字架で死なれ、復活されました。これについてペトロは、旧約聖書に記されている《ノアの時代》との関わりから、イエス様の復活と救いの意味をさらに説きます(参照創世記6~9章)。ノアは周囲のほとんどの人が神様を信じない環境で暮らしていましたが、《その世代の中で・・・神に従う無垢な人で・・・神と共に歩》みました(創世記6章9節)。そして、ノアは《箱舟》の事件を通して、神様の救いを経験しました。ペトロたちの時代や場所とは大きく離れていますが、そこに《霊では生きる者》(18節)であるイエス様がすでに関わっておられたというのです。それほどイエス様の救いは広く、大きい。そして、今も、わたしたちがどのような状況にいるとしても、福音を反故にすることなく、救いを全うしてくださると、聖書はわたしたちのためにも語っています。

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天の父なる神様、いろいろな状況を通る時も、復活されたイエス様が共におられることを思い起こさせてください。イエス様が実現してくださった救いの広さ、深さに根づかせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/18/2023

この日も主と共に【959】

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。(ペトロの手紙一3章18節)

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ペトロは、教会の仲間に向けて《義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです》と語り(14節)、その理由と模範として、イエス・キリストの姿をあらためて示します(18~22節)。
①イエス様は、神様に背(そむ)く人間の罪を赦すために、ご自分は神様に対して正しいお方であったにもかかわらず、苦しみをお受けになりました。
②イエス様の苦しみは、十字架の死にもっとも表されました。それは他の誰も担うことのできない、わたしたちの救いのための《ただ一度》の苦しみでした。
③イエス様の十字架の死の苦しみはそれ自体で終わらず、死からの復活に続きます。
④イエス様は《霊では生きる者》として、今もわたしたちを《神のもとへ導》いてくださいます。

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天の父なる神様、苦しみを味わう時に、その時にも御子イエスが離れておられないことを思い起こさせてください。むしろ、復活された御子によって、わたしたちはもはや空しく終わらないことを教え、力づけてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/17/2023

この日も主と共に【958】

心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(ペトロの手紙一3章14、15節)

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ペトロは、《義のために苦しみを受け》、また、《善を行って苦しん》でいる各地の教会の仲間に、《人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません》と呼びかけます(14、17節)。それは平和を願い、平和を追い求める姿勢のひとつです(参照11節)。
そのために大切なことは、
①迫害を受ける人にも《幸い》を告げられたイエス様の約束に立つことです(14節、参照マタイ5章11、12節)。
②《心の中でキリストを主とあがめ》ることです(15節)。気づかれぬよう密(ひそ)かに信じるという意味ではなく、心がいつもイエス様の側にあり、イエス様を通してまことの神様をこそ畏れていることです(参照イザヤ8章12、13節)。
③《抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備え・・・穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明する》ことです(15、16節)。
イエス様を信じる人たちは恐れの器ではなく、希望の器なのだと聖書は語ります。

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天の父なる神様、わたしたちの心が恐れや動揺をあじわう時に、イエス・キリストが告げてくださった幸いに立ち戻らせてください。あなたによって希望を抱くものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/15/2023

この日も主と共に【957】

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(ペトロの手紙一3章9節)

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ペトロは、イエス・キリストを信じる仲間たちが、さまざまな状況に向かい合うとしても、《悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って・・・追い求め》て生きることを願います(11節)。そして、もし周囲から悪意のある仕打ちを受けるとしても、仕返しをせずに祈りなさいと勧めます。ここで心に留まるのは、ペトロが聖書の言葉を引用しながら語っているということです(10~12節、詩編34編13~17節に相当)。聖書を通して、《主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる》ことを知り(12節)、また、神様がわたしたちに《祝福を受け継ぐ》ように望んでおられることを知ることができる(9節)。それだから、悪い思いや言葉に心を占領させず、祈りの言葉、神様に通じる言葉を心に宿し続けていこう、とペトロは語ります。聖書の言葉がペトロと教会の仲間たちを支えています。そして、聖書は神様の言葉として、わたしたちをも支えます。

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天の父なる神様、聖書の言葉を通して、自分がどのような者であるのか、どのように生きることができるのかを教えてください。そして、あなたの祝福につながる歩みを進ませてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/14/2023

この日も主と共に【956】

終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。(ペトロの手紙一3章8節)

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ペトロが生きていた時代、イエス・キリストを信じる人々は少数派であり、それぞれの地域で異なる信仰・価値観・生活習慣に囲まれて生きていました。ペトロは、イエス・キリストを信じる人は神によって新しく生まれたことを説き明かし(1章3節~2章10節)、天を目指す旅人として新しく生きるようにと勧めます(2章11節~3章7節)。そして次に、周囲から批判や敵意を向けられる場合に、どのような心と行いで立つべきかを語ります(3章8節~4章19節)。その初めに、信じる人々の一致、同情、兄弟愛、憐れみ、謙虚が取り上げられます。これはせめて身内だけでも安穏に過ごそうというよりはむしろ、この世の中で共に《悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求め》ようとする姿勢を表しています(11節)。教会・小隊は、イエス様を信じる人たちにとって、神様から平安をいただくために戻ってくる場所ですが、それだけでなく、神様から力をいただいてこの世へと出発する場所でもあります。

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天の父なる神様、あなたは小隊・教会において、わたしたちをあなたの愛の器として作り上げ、この世へ遣わされます。一人一人を顧み、あなたの恵みと力と共に歩ませてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/02/2023

この日も主と共に【955】

夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。(ペトロの手紙一3章7節)

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ペトロは、家庭において《妻》として暮らす女性たちに言葉を送り(1~6節)、続いて家庭において《夫》として暮らす男性たちにも言葉を送ります(7節)。①《妻を自分よりも弱いものだとわきまえ》ること。女性を低く見るという意味ではなく、男性の方が何かと優位に立ちやすい社会の状況をふまえて生活するように勧めます。②《命の恵みを共に受け継ぐ者》として尊敬すること。神様の恵みは夫か妻かという理由で偏ることはありません。夫と妻が共に生活することを支えるのは、神様の恵みです。そして、③祈りを妨げられないようにすること。《命の恵み》を神様から受け継ぐ歩みは、神様への祈りを保っていく歩みでもあります。一方では違いを認め合い、もう一方では神様の恵みによって同じ道のりを見ることができる、そういう生き方がイエス様のもとにあると、ペトロは呼びかけています。

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天の父なる神様、小隊につながる一人一人の家庭と家族を御心に留め、あなたの愛と恵みと力によってお守りください。あなたの恵みのもとで、共に健やかに歩むものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


8/01/2023

この日も主と共に【954】

妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。(ペトロの手紙一3章1節)

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ペトロが手紙を送った教会の中には、《御言葉を信じない人》のもとに嫁いだ女性たちがいたようです。当時、夫は家の長(ちょう)として強い権限を持っていました。それですから女性たちの中には信仰と生活の両立に苦心する人たちもいと思われます。そのような女性たちにペトロは《自分の夫に従いなさい》と勧めます。今の時代には男性偏重に聞こえる可能性もありますが、ペトロが伝えたいのは、妻たちが《神に望みを託した聖なる婦人たち》であり続け(5節)、《神を畏れる・・・純真な生活》を保ち(2節)、《善を行い、また何事も恐れない》で生きてほしいということです(6節)。そのために、あなたがたには人を感化し得る《無言の行い》が託されていると語ります。そのような人たちが教会・小隊を作り上げてきました。わたしたちの小隊の歴史も、家族や小隊のために祈り続け、《無言の行い》を大切に担われた多くの人たちの日々が結び合わされてできています。

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天の父なる神様、小隊(教会)につながる一人一人の家庭、家族を祝福してください。あなたの愛と恵みを生活の場所に生き生きと現わし、あなたの救いを共に喜ぶ時へと導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

この日も主と共に【953】

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。(ペトロの手紙一2章25節)

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ペトロは、当時の教会の中で《召使い》として働く人たちが《善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ》目にあっているのを心に留め(18、20節)、イエス・キリストの《模範》を示します(21節)。イエス様も謂(いわ)れのない罪で捕らえられ、訴えられ、あざけられ、傷つけられ、そして、十字架につけられ、死なれました。イエス様ご自身が《善を行って苦しみを受ける》極みを経験されました。ただし、イエス様が苦しまれたのだから、自分たちが苦しむのは仕方がないというのではありません。イエス様の苦しみと死によって、イエス様を信じる者たちは罪から救われ(いやされ)、神の正しさ(義)によって生きられるようになりました(24節)。善に対して牙をむく罪の力を、イエス様は無効にしてくださいました。苦しみが自分たちの願う通りに過ぎ去らないとしても、そこにもイエス様が共におられ、わたしたちを神のものとして守ってくださいます。

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天の父なる神様、苦しみを覚える時、御子イエスによってわたしたちの魂を守り、あなたの善に心を向けて歩み続ける力をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン