1/30/2024

この日も主と共に【985】ペトロの手紙二(12)

力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を・・・加えなさい。(ペトロの手紙二1章5~7節)

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《信仰》を豊かにするものとして、第五に《信心》が挙げられます(参照3節)。《信心》とは神様を畏(おそ)れ敬い、神様の言葉を大切に聴き、神様に従うことです。神様にふさわしい者となることを追い求めることです。それらがお仕着せではなく、自分にとってあたりまえの生き方になることです◆イエス様を信じる者にとって、《忍耐》はそれ自体が目的なのではなく、《神様の本性》にあずからせていただくためという目的があります(4節)。それですから《忍耐》に並んで《信心》も大切です。伝道者パウロも若者テモテを励まします。《信心のために自分を鍛えなさい。・・・信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。》(テモテ一4章7、8節)◆イエス様は今も《命と信心とにかかわるすべてのもの》を教会・小隊に、また、わたしたちに与えてくださいます(3節)。

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天の父なる神様、まことに目指すべき人生の目的に向かって生きるものとならせてください。あなたと共に人生を形づくることができるように助けてください。そのためにイエス様によって、あなたの恵みと力と忍耐をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/27/2024

この日も主と共に【984】ペトロの手紙二(11)

力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を・・・加えなさい。(ペトロの手紙二1章5~7節)

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《信仰》を豊かにするものとして第四に《忍耐》が挙げられます。一つ前に《自制》が挙げられましたが、ときには自分で制することのできない事態にみまわれることもあります。当時、迫害の迫る中にあったペトロもそうであったことでしょう。そのときに《忍耐》が大切になります◆

聖書の言う《忍耐》には、逆境と思われる状況の下でもしっかりと留まり続けるという意味合いがあります。それは困難だけを見つめるというよりも、そこにも《忍耐と慰めの源である神》がおられると信じて立つことです(ローマ15章5節)◆

イエス様はペトロや弟子たちに、《立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ》幸いを教えられ(ルカ8章15節)、《忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい》と励まされました(ルカ21章19節)。そしてわたしたちを救うために、自らも十字架に留まられました。今日、わたしたちも、《聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。》(ローマ15章4節)

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天の父なる神様、

イエス様の忍耐につながる歩みを導いてください。忍耐と共に、約束された慰めと希望をお与えください。

イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

1/26/2024

この日も主と共に【983】ペトロの手紙二(10)

力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を・・・加えなさい。(ペトロの手紙二1章5~7節)

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ペトロは、信仰を豊かにする第三のものとして《自制》を挙げます。《自制》は、英語では「セルフ・コントロール self-control」と言いかえられる言葉で、自分の欲しいと思うままに行動するのではなく、自分の感情と行いを制御できる姿を指しています◆

知識は大切ですが、知ることによってかえって誘惑にさらされる場合や道を誤る場合もあります。あるいはまた、信仰生活についてみても、聖書から教わることがかえって『自分は人よりも真理に近い』という自負になってしまい、神様が望まれる生き方からそれてしまう危うさがあります。《知識》と共に《自制》も大切であることを、聖書は教えてくれます◆

伝道者パウロも《霊の結ぶ実》、すなわち、聖霊の力によって生きる人に与えられる実について語るときに、まず《愛》を挙げ、そのしめくくりに《節制》を挙げています(参照ガラテヤ5章22、23節、元の言葉は《自制》と同じ)。

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天の父なる神様、イエス様はあなたの御心に従い、わたしたちを救うことにご自分のすべてを注がれました。愛に満ちた御子の自制のお姿を仰ぎつつ、わたしたちも自分の思いと言葉と行いとを健全に治めることができるように教え、助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/25/2024

この日も主と共に【982】ペトロの手紙二(9)

力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を・・・加えなさい。(ペトロの手紙二1章5~7節)

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ペトロは、《信仰》を豊かにする第二のものとして、《知識》を挙げます。最初に挙げた《徳》は、正しいことや善いことを大切にし、判断とふるまいができる姿を指しています。それは信仰をもつ者にとって、神様が教えてくださる大切なこと(真理)に立って生きることでもあります◆そうすると、神様がどのようなお方か、何を望んでおられるか、この世界や人や私自身をどのように見ておられるかといったことを知ること、すなわち《知識》が役立ちますし、必要です◆もちろん人間が神様について完全に知ることはできません。しかし、神様は、御子イエス・キリストを通して、また聖書の言葉を通して、さらにイエス様につながる教会・小隊を通して、必要十分な真理を今も教えてくださいます。神様といつまでも、どこまでも共に生きるための真理を知ることができます。《永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。》(参照ヨハネ17章3節)

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天の父なる神様、これからもイエス様を知り、それによってあなたを知り、大切なことをわきまえる歩みを導いてください。聖書に聴き、幸いを知る喜びを、わたしたちにお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/24/2024

この日も主と共に【981】ペトロの手紙二(8)

力を尽くして信仰には徳を・・・加えなさい。(ペトロの手紙二1章5節)
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ペトロは《信仰》に七つのものを加えることを勧めます。《信仰》だけでは不十分という意味ではなく、《信仰》を健全に、豊かにするために与えられているものを確かめています◆第一に挙げられるのは《徳》です。《徳》とは正しいことや善いことを大切に追い求め、実行し、品性を身に着けることです。これは当時の教会にとっては、さまざまな思想や価値観が混在する文化や社会において、ときには敵意を向けられる場合があるとしても、神様が大切にしておられることに自分たちの価値観や人生の優先順位を置くことを意味しました。それはまた、神様の言葉に立って勇気をもって生きる姿であるとも言えます◆《徳》の源はイエス様ご自身にあります(参照3節、新共同訳では《力ある業》と訳されている)。イエス様は人々の期待や評価ではなく、神様の御心に従い、十字架に至る道を歩まれました(参照フィリピ2章6~8節)。そして、わたしたちを救い、同じ道を共に歩むようにとわたしたちを招いてくださいます。
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天の父なる神様、《勇気を出しなさい》と語られるイエス様に心を向け、あなたの御心に従って歩まれたイエス様の歩みに続くものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン(参照ヨハネ16章33節)

1/23/2024

この日も主と共に【980】ペトロの手紙二(7)

だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(ペトロの手紙二1章5~7節)

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イエス様はわたしたちに、《神の力》と《尊い約束》とを与えてくださった(3、4節)。《だから・・・》とペトロは言葉を続け、《信仰》に《徳》、《知識》、《自制》、《忍耐》、《信心》、《兄弟愛》、《愛》の七つを加えなさいと勧めます(5~7節)◆このように何か良いものを一つずつ備えていくという表現は、当時の文学や教えにおいてはよくみられたようです。しかし、ペトロはどこでも聞けるような教訓を述べているのではありません。イエス様が《命と信心とにかかわるすべてのもの》をすでに用意して、与えてくださっているので(3節)、わたしたちはそれらをたしかに受け取り、《神の本性》にあずかるもの、すなわち、聖なる者にしていただこうと呼びかけています◆自力で理想的な人物になる道でははく、イエス様からの贈り物によって、神様に望まれているものとなる道をペトロは示しています。

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天の父なる神様、豊かに実を結ばせてくださると約束してくださるイエス様を信頼し、イエス様につながる歩みができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン(参照ヨハネ15章5節)

1/20/2024

この日も主と共に【979】ペトロの手紙二(6)

この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。(ペトロの手紙二1章4節)

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《尊い信仰》を確認するために(1節)、ペトロは、イエス様から《神の力》とならんで(3節)、《尊くすばらしい約束》をもいただいていることを挙げます。

イエス様は人を救うために神様から選ばれた唯一の神の御子で、《尊い、生きた石》と呼ばれます。そして十字架で《尊い血》を流されました(参照ペトロ一1章19節、2章4、6節)。そのイエス様がみずからが保証となって、わたしたちを《天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者》にしてくださいます(ペトロ一1章4節)。

また、イエス様の約束にはわたしたちが《神の本性》にあずかる、すなわち《聖なる者》になるという目的が含まれています(参照ペトロ一1章6節)。

わたしたちは、イエス様を近寄りがたい存在として遠くから信じなければならないのではなく、イエス様に似た者と言っていただけるほどに近づいてよいのです。イエス様がそれを望み、招いてくださいます。

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主イエスよ、あなたの《尊い約束》を受け入れ、この世で尽きることも朽ちることもない、新しい生き方を導いてください。あなたに似た者に成長する喜びを教えてください。アーメン

1/19/2024

この日も主と共に【978】ペトロの手紙二(5)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。(ペトロの手紙二1章3節)

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教会の仲間たちに《恵みと平和が・・・ますます豊かに与えられる》ようにと願い(2節)、お互いの信仰を確認することから手紙の本題が始まります(3~11節)◆ます大切なこととして挙げられているのは、《命と信心とにかかわるすべてのもの》、すなわち、神様と共に生きるために必要な一切をイエス様が与えてくださるということです。人間の真心や敬虔や努力にも大切な意味がありますが、信仰はそれらに留まらない、イエス様によって《神の力》を受け、生かされることです◆イエス様が《神の力》を与えることができるのは、《栄光と力ある業とで召し出してくださった方》、ご自分の十字架の死と復活によって神様の愛と力を現わされ、わたしたちを救うお方だからです。イエス様を知ることが、信じる者の力の源泉です。

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天の父なる神様、あなたはわたしたちの真の必要を満たしてくださるお方です。イエス様を通して、あなたの御力を受け入れて歩むものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/18/2024

この日も主と共に【977】ペトロの手紙二(4)

神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。(ペトロの手紙二1章2節)

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『ペトロの手紙二』は、手紙を送る人の自己紹介、手紙を送る相手への呼びかけから始まり、《恵みと平和》が与えられるように》と続きます◆当時、《恵みと平和》という言葉はふだんの挨拶として使われていたようです。ただし、この手紙においては挨拶以上に重みのある祈りの言葉であると言えます。なぜなら、《神とわたしたちの主イエスを知ることによって》与えられる《恵みと平和》を信じ、願うからです◆神様はわたしたちを愛して、イエス様を遣わされました。イエス様はわたしたちを救うために、十字架でご自身を犠牲にしてくださいました。それですから、神様とイエス様を知ることによって与えられる《恵みと平和》とは、神様の愛を知って生きる人への贈り物であるとも言えます。小隊・教会は、そのような人生の幸いを知り、お互いに祈り合うことを知ったものたちの集まりです。

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天の父なる神様、あなたがわたしたちを愛しておられること、また、御子イエス様がわたしたちの主であることをますます知ることができますように。この世の力では生み出すことのできない、豊かな《恵みと平和》に共にあずからせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/16/2024

この日も主と共に【976】ペトロの手紙二(3)

・・・わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。(ペトロの手紙二1章1節)

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『ペトロの手紙二』は、手紙を受け取る仲間を《わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たち》と呼びかけます。

その多くはおそらくペトロなど《使徒》より若い世代であり、ユダヤ人だけでなく外国人も含まれていたと思われます。しかし、イエス様を信じる人は、たとえお互いの年齢や生まれ育ちが異なっていても、神様の前に等しいと手紙は最初に確認します。しかも、イエス様に直接お会いし、教えを受けた《使徒》にも等しいと言えるほどにです。

そのように言えるのは、わたしたちにとって《信仰》とは、人の宗教的な考え方や心がまえを指すのではなく、神様が人を信じて生きる者にしてくださるという神様からの贈り物(恵み)だからです。

わたしたちは、今も、《わたしたちの神と救い主イエス・キリスト》によって、神様との正しい関係に入れていただき(義)、信仰を受けることができます。

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天の父なる神様、あなたは《救い主イエス・キリスト》をとおして、あなたと共に生きるものとしてくださいました。イエス・キリストに焦点を合わせてものごとを見つめ、歩むことができるように支え、導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/15/2024

この日も主と共に【975】ペトロの手紙二(2)

イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロ・・・(ペトロの手紙二1章1節)
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『ペトロの手紙二』を書き始めた《シメオン・ペトロ》は、自分が《イエス・キリストの僕であり、使徒》であると名乗ります。それらは彼が自分の立場や使命をどのように受けとめているかを表しています。
①《使徒》とは、イエス様から任命されて、この世に派遣された者という意味です。
②《僕》(しもべ)とは、イエス様にお仕えし、イエス様の命じられることに従う者という意味です。
《使徒》と《僕》という短い二つ言葉に、イエス様から新しい人生へと招かれ、イエス様に応答して生きるという姿が表れています。
今、わたしたちは《使徒》ではありません。しかし、イエス様からの招きとイエス様に対する応答という点では、わたしたちの前にも同じ道のりが開かれています。わたしたちもイエス様を通して無償の救いが与えられ、神の子となるようにと招かれています。それは、神様の恵みを受け入れ、神様に応答し、イエス様に従う者となることです。
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天の父なる神様、あなたはイエス様を通してわたしたちを呼んでくださり、導かれます。イエス様に聴き従い、あなたにお応えする新しい生き方を教えてください。そのために小隊・教会とつながる一人一人を守り、育ててください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

1/13/2024

この日も主と共に【974】ペトロの手紙二(1)

イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロ・・・(ペトロの手紙二1章1節)

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ペトロは手紙の書き出しにあたり自分を《シメオン・ペトロ》と自己紹介します◆ペトロは元の名前を「シモン」といいます(マルコ1章16節)。イエス様が《メシア、生ける神の子》であると告白したことから、イエス様から「ケファ」(岩)という新しい名前をいただきました。「ケファ」をギリシャ語で表したものが「ペトロ」です(マタイ16章16~18節、コリント一15章5節)。また、《シメオン》は「シモン」をギリシャ語で表したものの一つです(使徒15章14節)◆こうしてみると、《シメオン・ペトロ》という自己紹介からは、イエス様に出会い、イエス様を信じたからこそ今の自分があるという思いが伝わります。また、自分の手紙を受け取る人々が自分と同じユダヤ人だけでなく、ギリシャ語を使うユダヤ人以外の人々がいることを心に留めて、あるいはそのような人々にも神様の家族として挨拶しようという思いが伝わります◆ペトロはイエス様との出会いによって、新しい自分を生きるものとなり、また、まわりの人や世界を見るまなざしを新しくされ、広くされました。

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天の父なる神様、イエス様を信じ、イエス様に聞き従い、心が広くされる新しい人生を生きるものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/12/2024

この日も主と共に【973】ペトロの手紙一(43)

愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。(ペトロの手紙一5章14節)

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ペトロは手紙の結びにおいて、教会の仲間に向けて《愛の口づけ》による挨拶を勧めます。

《口づけ》とは当時、親しい人同士の挨拶として一般的に行われていました。おそらく手紙を回覧した教会にはそれぞれ、ユダヤ人や異邦人(ユダヤ人以外の人々)、あるいは当時の文化から、自由な市民や奴隷など、さまざまな背景や立場を持つ人々が集まっていたと思われます。

しかし、イエス様を信じる者たちにはみな同じ《平和》が与えられているとペトロは語ります。それは、イエス様が十字架の死によって神様と人との間に回復してくださった平和であり、死から復活して弟子たちに告げてくださった平和です(参照ローマ5章1節、ヨハネ20章21、26節)。そしてまた、イエス様が教会に残してくださった平和です(ヨハネ14章27節)。迫害の迫るペトロや当時の教会にとっても、そして、今のわたしたちにとっても、イエス様の平和は変わりません。イエス様ご自身が変わることのないお方だからです。

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主イエスよ、あなたの平和をわたしの心に、生活に、家族や周囲の人たちとの関係に、教会・小隊にお与えください。平和の主であるあなたと共に歩ませてください。アーメン

1/11/2024

この日も主と共に【972】ペトロの手紙一(42)

共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。(ペトロの手紙一5章13節)

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晩年のペトロを支える一人に《マルコ》という人がいました(別名ヨハネ)。

エルサレムで母マリアと暮らし、母子共にイエス様を信じ、自宅を弟子たちの集会のために開放しました。この頃にペトロと知り合っていたと思われます。

いとこのバルナバに誘われてパウロの伝道旅行に参加しました(参照使徒12章12、25節、コロサイ4章10節)。しかし、何らかの理由で途中で離脱したため、バルナバとサウロには対立が生じました(参照使徒13章13節、15章36~40節)。

しかし後年、パウロはマルコを《協力者》として信頼しており(フィレモン24節、参照テモテ二4章11節)、ペトロも《わたしの子》と表現しています。

イエス様を信じる人生にも問題は起こり得る。それでもなお神様が支え、転機や成長や和解を与えてくださり、神の家族として新しい道へと導いてくださる望みがあることを、彼らの姿から知ることができます。

神様ご自身が、イエス様を信じる者たちを神の子として保ち続けてくださるからです。

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天の父なる神様、
さまざまなことが起きる時にも、あなたがわたしたちを神の家族として受け入れ続けてくださっていることに心と生活の足場を保たせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/10/2024

この日も主と共に【971】ペトロの手紙一(41)

共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。(ペトロの手紙一5章13節)

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ペトロは晩年、キリスト教会に対する迫害の中で捕らえられ、ローマで殉教の死を遂げたと言われています。

彼は『ペトロの手紙一』の結びにおいて、手紙の差出人として教会の仲間たちを《共に選ばれてバビロンにいる人々》と紹介します。

《バビロン》は旧約聖書の時代において、イスラエルの国(北と南に分裂した後の南の王国ユダ)を滅ぼした国です。イスラエルの人々は侵略され、国を滅ぼされ、捕虜として連行されました(バビロン捕囚)。

ペトロがローマを《バビロン》と表現したのには、まず教会の所在地を伏せて迫害の危険を抑える意味があったと思われます。そればかりでなく、かつてバビロンからの解放と祖国へ帰還を約束し、実現された神様を信頼し、神様がこれからも教会を助け、新しい局面へと導き出してくださるという希望に立っていたからだと思います(参照エレミヤ25章11~13節、29章10~14節)。

ペトロは捕らわれの身でも、天を目指す《旅人》として歩み続けました(2章11節)。

***

天の父なる神様、地上で生きる日がすべてなのではなく、御子イエスによってあなたの御許、天へと続く道の途上にあることを覚えて、これからの日々も歩むものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

1/09/2024

新年を迎える祈り【35】

幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。・・・イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカによる福音書2章40、52節)

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イエス様は、ベツレヘムでお生まれになった後、身の安全を守るためにエジプトに逃れ、その後ガリラヤ地方のナザレに移られました。

ナザレにおける暮らしについては、聖書はごく短く伝えるだけです。ベツレヘムの誕生にまつわって起きたさまざまな出来事、また、身の安全を守るためにエジプトに逃れたような“非日常”から、ごくふつうに暮らす“日常”へと移っていったと言えます。

その“日常”を通しても、イエス様は、
①身体的な面、
②精神的な面、
③神様との関係における霊的な面、
④他の人々との関係における社会的な面
において、全人的に豊かに成長されました。

クリスマスから年末年始を過ごし、新年もしばらくの日をすごして、だんだんと“日常”へと戻りつつありますが、これからの日々も神様と共に歩む時、神様の恵みによって成長する時であることを心に留めたいと思います。

***

天の父なる神様、
御子イエス様は人となってお生まれになり、わたしたちと同じ時をかぞえながら歩まれ、成長されました。自分に与えられている時を、あなたと共に歩むため、イエス様と共に歩むために用い、成長するものとならせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

1/06/2024

クリスマスの祈り&新年を迎える祈り【34】

・・・主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。(マタイによる福音書2章19~21節)

***

主の天使がヨセフの夢に現れ、ヘロデ王がイエス様の命を狙っていると告げました。そこでヨセフとマリアとイエス様はエジプトへ逃れました(13~15節)。ヘロデ王が亡くなったのち、三人は《イスラエルの地へ帰って来》ました。しかし、ヘロデの後を継いだアルケラオは父に劣らぬ暴君であり、ふたたび身の安全を考えなければなりませんでした。そうしたところ、《夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住》みました(22~23節)。イエス様は神様の御子でありながら、この世では安全な居場所を求めて避難する生活を経験されました。そのうえで自らが《道》となり、わたしたちを神様のみもとへ、神の国へと導いてくださいます(参照ヨハネ14章6節)。

***

天の父なる神様、さまざまなことが起きる中で、イエス様をまことの道として歩むことができるように、聖霊の助けと導きをお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/05/2024

クリスマスの祈り&新年を迎える祈り【33】

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。・・・(マタイによる福音書2章13~15節)

***

イエス様にお会いした占星術の学者たちに対して《ヘロデのところへ帰るな》とお告げがありました。そこで彼らは《別の道を通って自分たちの国へ帰って行》きました(12節)。これを知ったヘロデ王は《だまされた》と逆上し、《人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させ》るという恐ろしい行動に出ました(16節)。ヨセフとマリア、イエス様は辛うじてエジプトへ逃れました。ヘロデ王の欲望と暴力、その犠牲となった多くの小さい者たちの犠牲は、今も人間が抱える深い闇を表しています。その闇の中でわたしたちを照らし、救う光として、イエス様はご自身を捧げるために歩まれます。

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天の父なる神様、わたしの心の闇を、わたしたちの世界の闇を御子イエス様によって照らし、あなたの救いへと導き入れてください。あなたの光を受け入れるものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/04/2024

クリスマスの祈り&新年を迎える祈り【32】

・・・東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書2章9~10節)

***

占星術の学者たちは《星》に導かれ、イエス様のもとにたどり着きました。《幼子は母マリアと共におられた》という表現は、学者たちの心が家族全員に向かったというよりも、幼子イエス様に集中していたことを表しています。彼らは《ひれ伏して幼子を拝み》、《黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ》ました。これらはどれも貴重な品であり、一般の人々にはおよそ手の届かないものでした。しかし、学者たちは幼子イエス様が真の意味で貴いお方であること、すなわち、《王》また《メシア》(救い主)であることを認め、自分たちの最善をもって心を表しました(2、4節)。このような学者たちの旅路と礼拝に加わるようにと、聖書は今日のわたしたちも呼びかけています。

***

天の父なる神様、あなたはわたしたちを救うため、貴いお贈り物として御子イエス様をわたしたちに与えてくださいました。イエス様を受け入れ、わたしたちも東方の学者たちのように、まごころから応答するものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/03/2024

クリスマスの祈り&新年を迎える祈り【31】

ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。(マタイによる福音書2章7、8節)

***

《ユダヤ人の王》に会いに来たと占星術の学者たちが尋ねて来た時、ヘロデ王は《メシア》(救い主)が生まれた可能性があると察しました。そこで宗教家たちを集めて、《メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただし》ました(4節)。彼らは預言者の言葉によって、メシアの生まれる場所が《ユダヤのベツレヘム》であると特定することができました(5、6節、参照ミカ5章2節)。

ヘロデ王はその情報を占星術の学者たちに伝え、《わたしも言って拝もう》と言いました。しかし、それは本心ではありませんでした。ヘロデ王は後に、イエス様を亡き者にしようと恐ろしい命令を出します。

しかし、神様は人の不誠実な言葉さえも用いて学者たちを導き、イエス様にお会いする旅路を守られました。

***

天の父なる神様、誠実で真実な言葉や不誠実な偽りの言葉、さまざまな言葉が飛び交う中で、大切なことを聞き分ける落ち着いた心をお与えください。また、人の思いや言葉を越えて誠実でいてくださるあなたの言葉に聴くものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/02/2024

クリスマスの祈り&新年を迎える祈り【30】

・・・占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書2章1、2節)

***

《東の方》で、イエス様の誕生を《星》によって知った《占星術の学者たち》がいました。詳細はわかりませんが、彼らは国では見識が高く、重要な地位にあったと思われます。しかし、星に《ユダヤ人の王》の意味を理解した彼らは、自分たちの経歴や立場を脇に置いて、イエス様にお会いする旅に出ました。

他方、エルサレムで学者たちを迎えたヘロデ王とエルサレムの人々は、《不安》を抱きました(3節)。ヘロデはローマ帝国の後ろ盾によって王を名乗っており、ユダヤ人はローマ帝国とヘロデの二重の支配を受けていました。そこにさらに《王》と呼ばれる存在が登場すれば、いびつでもそこそこ成り立っている日常が危うくなる可能性が生まれるからです。

新しい一歩をふみ出した学者たちと、日常が脅かされることに不安を抱くヘロデ王とエルサレムの人々は、対照的な仕方で、神様を信じる世界、信仰の世界にはある種の冒険が伴うことを伝えています。

***

天の父なる神様、あなたはわたしたちのために新しいことを行われます。あなたを信頼し、新しい一歩を進ませてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/01/2024

クリスマスの祈り&新年を迎える祈り【29】

新年おめでとうございます。

暦は新しくなりましたが、教会におけるクリスマスの期間はなお続きます。

そこでなおしばらく「クリスマスの祈り&新年を迎える祈り」と題して、聖書の言葉とお祈りを分かち合っていきたいと思います。

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シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカによる福音書2章28~32節)

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エルサレムの神殿にシメオンという人が来ていました。彼は、《主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて》いました(25、26節)。シメオンはヨセフとマリアとイエス様を見つけ、イエス様に会ったことを大いに喜びました。《この僕を安らかに去らせてくださいます》という言葉は、《万民のために整えてくださった救い》であるイエス様にお会いしたことによって、自分のいっさいが神様の救いの御手のうちにあるー地上においても、たとえそうでなくともーという確信を与えられたことを示しています。シメオンは、イエス様を抱きつつ、神様の大きな御手に抱かれていました。

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天の父なる神様、《彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え・・・生涯、彼を満ちたらせ わたしの救いを彼に見せよう》との約束を、御子イエス様によって、わたしたちの人生にも真実なものとしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン(参照詩編91編14~16節)