1/31/2023

この日も主と共に【805】山上の説教(3)

わたし〔イエス〕が来たのは律法や預言者を・・・廃止するためではなく、完成するためである。(マタイによる福音書5章17節)

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《律法や預言者》とは神が人間に語られた言葉を指し、今日わたしたちが読んでいる聖書(旧約)に相当します。当時、律法学者やファリサイ派の人々がいろいろと聖書を研究し、教えていました。イエス・キリストも何か新しい流派を始めたと思われたようです。しかし、イエス・キリストが目指されたのは、神の言葉そのものがわたしたちの人生に徹底されること、すなわち、わたしたちが神の愛と正しさに結ばれて生きることでした。わたしたちのためにそれを《完成する》と、イエス・キリストは宣言されます。

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天の父なる神さま、御子イエスを通し、聖書を通して、あなたに聴く者とならせてください。わたしたちの心の深くにまで語りかけ、新しく生きる力をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/30/2023

この日も主と共に【804】山上の説教(2)

あなたがたは世の光である。・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイによる福音書5章14、16節)

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イエス・キリストは弟子たちを《世の光》と呼ばれました。これから努力して《世の光》になるのではなく、すでにあなたがたに《光》があるのでそれを輝かせなさいと言われました。それは《立派な行い》とも言われます。「良い行い、美しい行い」という意味です。ほんとうに良いことや《時にかなって美しい》ことを行(おこな)うお方は、神ご自身です(参照コヘレト3章11節、口語訳)。神に愛され、教えられ、生かされて輝きなさいと、わたしたちは招かれています。

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天の父なる神さま、わたしたちを驕(おご)りたかぶることや自分を卑下することから守り、あなたの愛と力によって、健やかに輝いて生きるものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


この日も主と共に【803】山上の説教(1)

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章3節)

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『マタイによる福音書』5~7章はイエス・キリストの教えがまとめられており、『山上の説教』と呼ばれています。その最初が『八つの幸い』の教えです(3~10節)。これらの《幸い》は人間が条件を満たして手に入れるものではなく、神がイエス・キリストに従う《弟子たち》に実現してくださるものです。また、八つの幸いのうち初めと終わりの幸いは《天の国はその人たちのものである》と今から始まっているものであり、それらに囲まれる六つの幸いは将来において完全に実現するものです。イエス・キリストは、わたしたちの歩みに《幸い》を宣言してくださいます。

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天の父なる神さま、あなたの《幸い》をわたしたちの歩みに現わしてください。御子イエスの宣言に支えられ、導かれて、望みをもって歩むものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/28/2023

この日も主と共に【802】主イエスのたとえ(7)

あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。(ルカによる福音書10章36節)

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ある人が《わたしの隣人とはだれですか》と問いました(29節)。その相手さえ分かれば《隣人を自分のように愛しなさい》という戒めを実践し、《永遠の命を受け継ぐことができる》と考えたからです(25、27節)。これに対してイエス・キリストは「善いサマリア人」のたとえを通して(30~35節)、《隣人》は他人を選別するものではなく、あなた自身がなるものだと語られました。イエス・キリストのたとえは、奥深い知恵を伝えるだけでなく、聴く者に問いかけ、応答や決断をうながします。イエス・キリストご自身がわたしたちの隣人となって語られた言葉だからです。

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主イエスよ、あなたはわたしたちの隣人となり、神に愛される道を、また、わたしたち自身も隣人となる道を教えてくださいました。あなたの御言葉に応答して心を定め、隣人となる道を歩み出せるように助けてください。アーメン


1/27/2023

この日も主と共に【801】主イエスのたとえ(6)

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(ルカによる福音書18章13、14節)

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このたとえで、ファリサイ派の人が神に感謝したことは、《ほかの人たちのよう》ではないことでした(11、12節)。彼は、自分よりも信仰に劣ると思われる人々を手段にして、自分の正しさを証明しようとしたのです。他方、徴税人は、神から遠く離れている自分自身の現状を自覚し、それゆえにこそ神に憐れみをひたすらに求めました。神が望んでおられるは、わたし自身の心であり、祈りです。

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天の父なる神さま、今の自分のそのままの姿であなたに心を開き、祈ります。御子イエスによって受け入れ、新しくし、あなたと共に生きる者としてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/26/2023

この日も主と共に【800】主イエスのたとえ(5)

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカによる福音書15章20節)

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「放蕩(ほうとう)息子」のたとえで、《父親》は帰ってくる《息子》を遠くに見つけました。家を飛び出し、好き放題をした挙句に人生に失敗した息子でした。しかし、父親は彼を《憐れに思い》、自ら《走り寄って》迎えました。当時は年長者が走るなど想像し難い姿でした(参照レビ記19章32節)。しかしイエス・キリストは、息子のためなら恥も外聞もかなぐり捨てる父親をあえて描かれました。それがわたしたちを愛し、待ち続けておられる天の父、神の姿だからです。

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天の父なる神さま、わたしたちがどこにいるとしても、あなたはわたしたちを見つけ、御子イエスによって近づいてくださいます。あなたに心を向け、わたしたちがまことに生きるべき所へと立ち返らせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/25/2023

この日も主と共に【799】主イエスのたとえ(4)

悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。・・・一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカによる福音書15章7、10節)

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宗教の専門家たちは、自分たちのように律法(神の教え)を守ることができない人々を《罪人》と呼んでいました。そして、そのような人々をイエス・キリストが友として受け入れていることを批判しました(2節)。イエス・キリストは、「失われた羊、銀貨、息子」の三つのたとえを通して(3~32節)、《罪人》と軽べつされる人が天の父のもとに立ち帰ることこそ、天の大きな喜びなのだと語られました。

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天の父なる神さま、あなたの御目には、軽んじられても仕方のないという人は一人もいません。あなたのまなざしによって慰めと力を得させてください。また、わたしたち自身のまなざしを健やかにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/24/2023

この日も主と共に【798】主イエスのたとえ(3)

僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。・・・』(マタイによる福音書13章28~30節)

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「毒麦」のたとえとその説明(13章24~30、36~43節)は次のことを伝えています。①地上では善悪が混在しています。小隊・教会であってもその影響を免れません。②ただし人が神に代わって白黒をつけ、裁いてはなりません。③神だけが正しく裁かれるお方であり、その時を将来に用意しておられます。この言葉はわたしたちを神に創造された者として留まらせ、落ち着きと忍耐を励ましてくれます。

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天の父なる神さま、目の前にさまざまなことが起きます。それでもあなたが善なるお方であり、かならず正しいことを行われることを信頼して歩むものとしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/23/2023

この日も主と共に【797】主イエスのたとえ(2)

神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。(マルコによる福音書4章30~32節)

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イエス・キリストは、1ミリにも満たない小さな《からし種(だね)》が大きく成長するさまを人々に思い起こさせながら、神の国が、①目に映る状況やそれに基づく予想を超える仕方で現れる、②周囲に影響されず確かに、力強く成長する、③多くの人を受け入れることができるほどに広がる、と教えられました。このイエス・キリストの言葉によって、わたしたちの人生や小隊・教会には可能性が与えられており、健やかな期待を持つことができます。

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主イエスよ、わたしたちの心、生活、小隊・教会を、神の国の現れる場所として守り、育ててください。共に神の国に幸いを見出し、喜ぶものとならせてください。アーメン


この日も主と共に【796】主イエスのたとえ(1)

種を蒔く人が種蒔きに出て行った。・・・ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。・・・(マルコによる福音書4章3、8節)

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イエス・キリストは色々な物語を使い、大切なことを教えられました。それらを“譬(たと)え”と呼びます。「種を蒔(ま)く人」の譬(たと)え(マルコ4章1~9節)は、種が落ちた土地の違いとその結果について四つの場合を示し、《神の言葉》をどのように受け入れるのかと、わたしたちの心に問いかけられました(13~20節)。わたしたちが《御言葉を聞いて受け入れ人たち》となり、豊かに《実を結ぶ》ために、イエス・キリストはわたしたちの心を耕し、種を蒔き続けてくださいます(20節)。

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主イエスよ、あなたはいろいろな言葉や話を用いて神の恵みを告げられました。あなたの言葉を受け入れ、神の国に向かって心を柔らかくし、開かせてください。アーメン


1/21/2023

この日も主と共に【795】主イエスの働きの始まり(7)

イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。(ルカによる福音書6章12節)

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イエス・キリストは独りきりではなく、弟子を召され、彼らと共に活動なさいました。とくに弟子たちの中で《使徒》(遣わされた者)と名付けられた十二人がいます。

彼らは、
①イエス・キリストの徹夜の祈りによって選ばれました。
②イエス・キリストといつも共にいました。
③イエス・キリストが願われる所に派遣されました。
④イエス・キリストご自身の《権能》、神に由来する力を与えられました(参照マルコ3章14、15節)。

使徒たち、弟子たちの歩みに、小隊・教会の歩みも、わたしたちの歩みも続いています。

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主イエスよ、あなたは弟子たちを招き、神の恵みが生き生きと働く世界へと遣わされました。わたしたちも弟子たちの歩みに連なり、さらにその先頭におられる、あなたの歩みに連ならせてください。アーメン


1/20/2023

この日も主と共に【794】主イエスの働きの始まり(6)

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコによる福音書1章35節)

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イエス・キリストが公に働きを始められると、大勢の人が昼夜を問わずやって来るようになりました。忙しさの中でもイエス・キリストは時間と場所を確保し、神に祈られました。後に弟子たちに《天におられるわたしたちの父よ》と祈るように教えられたことを考えると(マタイ6章9節)、イエス・キリストご自身もふだんから神を《父よ》と呼びかけて祈っておられたに違いありません。イエス・キリストの祈りは、宗教的な義務や儀礼以上のもの、神に信頼して生きる営みそのものであり、ご自身の力の源でした。

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主イエスよ、《主に望みを置く人は新たな力を得》るという聖書の言葉が真実であることを、あなたはご自分の祈りとお働きにおいて示されました(イザヤ40章31節)。わたしたちにも祈ることを教え、力づけてください。アーメン


1/19/2023

この日も主と共に【793】主イエスの働きの始まり(5)

イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。(マタイによる福音書4章23節)

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イエス・キリストが公に始められた働きは、①聖書を教え、神の御心を明らかにすること、②神の国についての福音を宣べ伝えること、③病気や患いに苦しむ人々をいやすことでした。福音書には病気や患いが自然の理(ことわり)を超える仕方でいやされた出来事(奇跡)が記されており、これらについてさまざまな見解や立場があります。大切に注目したいことは、イエス・キリストが言葉と行いの両方を駆使して、あらゆる人々のために神の恵みを現実のものとなさり、神の御心を明らかにし、「神の国」を示されたということです。

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主イエスよ、あなたはわたしたちの身も心も神に創(つく)られたものとして慈しまれす。あなたの御言葉とみわざによって、神の国の恵みに与らせてください。今、心や体に重荷を負っている人々を御手で守り、支えてください。アーメン


1/18/2023

この日も主と共に【792】主イエスの働きの始まり(4)

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカによる福音書4章21節)

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イエス・キリストはナザレの町の会堂(ユダヤ人の礼拝の場所)に出かけ、人々の前で『イザヤ書』の言葉を読まれました。そして、ご自分が神の僕(しもべ)であること、また、神から与えられた使命を果たすことを公に宣言されました。《主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。》(18、19節、参照イザヤ61章1、2節)

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主イエスよ、あなたは福音、神の救いと助け、神の恵みをこの世界にもたらすために来られました。あなたの言葉と働きを通して神の恵みを知るものしてください。アーメン


1/17/2023

この日も主と共に【791】主イエスの働きの始まり(3)

・・・イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコによる福音書1章15節)

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ガリラヤは古くから《異邦人の地》、《闇の中を歩む民》の地、《死の陰の地》と表現される場所でした(イザヤ書8章23節、9章1節)。そこにイエス・キリストはあえて行かれ、《神の国は近づいた》と宣言されました。《神の国》は、具体的な国家や領土ではなく、神の御心が行われる所、神の恵みが現れる所、神の平和に満ちた所を指しています。イエス・キリストのおられる所に《神の国》が始まりました。今も聖書を通して、イエス・キリストは《神の国》に生きるようにと、わたしたちのことも招いておられます。

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主イエスよ、あなたが告げてくださった福音を受け入れ、神の国に入る者とならせてください。わたしたちが生きている場所も、さまざまなことが起こるとしても、神の国のたしか一部としてくださり、お守りください。アーメン


1/16/2023

この日も主と共に【790】主イエスの働きの始まり(2)

イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。(マタイによる福音書4章1節)

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イエス・キリストは《荒れ野》に行き、悪魔からの誘惑を受けられました。それは不測の事態ではなく、むしろ聖霊に導かれる歩みの一部でした。悪魔は、イエス・キリストに《神の子なら》奇跡を起こして自分を証明してみせよと語り(3、6節)、さらに自分を拝むことが成功の道だと告げました(9節)。しかし、イエス・キリストは三度、神の言葉(旧約聖書『申命記』の言葉)を引用し、神に聞き従うことこそが命であると明らかにして、悪魔を退けられました。イエス・キリストを信じることは、イエス・キリストご自身がそうであったように、神の言葉(聖書)を受け入れ、命の導きと力を受けとって歩むことでもあります。

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主イエスよ、あなたの歩みにならい、わたしたちの思いや言葉や行いが神の言葉、聖書に裏付けられたものであるように教え、導いてください。アーメン


この日も主と共に【789】主イエスの働きの始まり(1)

イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコによる福音書1章9~11節)

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イエス・キリストは《洗礼》を受けられました。それは罪の悔い改めが必要だったからではなく、神の僕(しもべ)として、神の御心に適って歩むためでした。その時、天から聖霊が降り、神ご自身の《愛する子》という宣言がなされました。天の父と御子と聖霊が一つとなって、わたしたちを救うための、福音のチームを組んでくださいました。

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父と御子と聖霊、三つにして一つでおられる神様、わたしたちを愛し、わたしたちを生かすために、わたしたちの先へすでに自ら進み出してくださっていることを感謝します。あなたの道に続くものとならせてください。アーメン


1/14/2023

この日も主と共に【788】イエス・キリストの備え(7)

わたし〔ヨハネ〕は、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタイによる福音書3章11節)

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洗礼者(せんれいしゃ)ヨハネが人々に勧めた《悔い改め》は、人が自分の行いを反省する以上のことで、心の方向、生きる方向を神に向け直すことでした。ヨハネに応えて悔い改めを表明した人々は、川の水に身を浸(ひた)らせました(洗礼)。ただしヨハネの活動はさらに重要なことを示す“しるし”でした。人の心や生き方がほんとうに新しくなるためには、《聖霊と火》、すなわち罪を除き、清くする神の力をもつお方、イエス・キリストが必要なのだ、と聖書は呼びかけています。

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天の父なる神様、あなたに心を向けて歩み続けられるように、あなたの聖い御力と共にあらせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/13/2023

この日も主と共に【787】イエス・キリストの備え(6)

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。・・・彼は光ではなく、光について証しをするために来た。(ヨハネによる福音1章6、8節)

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洗礼者(せんれいしゃ)ヨハネは、自分の後にメシア(救い主)が来られると人々に知らせ、心を神に向けるようにと熱心に勧めました。福音書の著者ヨハネ(同名だが別人、イエス・キリストの弟子)は、洗礼者ヨハネが《声を張り上げて言った》と伝えています(15節)。そして自分自身も《わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝え》るために文章を残しました(ヨハネの手紙一1章1節)。それぞれが自分のできる方法でイエス・キリストを伝え、神の《恵みと真理》を伝えています(14節)。

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天の父なる神様、御子イエスがわたしたちにとって大切なお方であることを心にも暮らしにも受けとめ、ともに歩むことができるに、恵みによって支えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/12/2023

この日も主と共に【786】イエス・キリストの備え(5)

イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると・・・そして神に至る。(ルカによる福音3章23、38節)

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『ルカによる福音書』は、『マタイによる福音書』とは別の視点でイエス・キリストの系図を紹介しています(参照 マタイ1章1~17節)。父ヨセフから母マリアの家系をさかのぼります(エリは義理の父)。そして信仰の父アブラハム、最初の人アダム、《神に至る》とまとめています。この系図は、長い年月をかけて準備された神の救いの計画があること、また、その計画がイエス・キリストが人となって誕生されたことによって実現したことを伝えています。

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天の父なる神様、人となられたあなたの御子イエスによって、あなたの大きな救いの計画のうちに生きる者となるように、わたしたちを受け入れてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/11/2023

この日も主と共に【785】イエス・キリストの備え(4)

この人〔イエス〕は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。(マルコによる福音6章3節)

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成人(イスラエルでは13歳)となったイエスさまについて、当時の人々の反応からうかがえることがあります。①《大工》と呼ばれた。父ヨセフの家業を手伝い、学び、引き継いだと思われます。②《マリアの息子》と呼ばれた。父ヨセフはイエスさまの成人後まもなく亡くなったと思われます。③4人以上の弟や妹がいた。父亡き後、母マリアと共に家庭を支えられたと思われます。イエス・キリストの信仰の道は、学び、働き、家族を慈しむ道でもありました。

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天の父なる神様、御子イエスが地上においてその時々の務めを誠実に担われたように、わたしたちも日常の小さなわざから大切にできるように助け、導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/10/2023

この日も主と共に【784】イエス・キリストの備え(3)

イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカによる福音書2章52節)

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イエス・キリストは神の御子でありながら、人となられました。ただし、人々の注目を集める成人男性として登場されませんでした。あるいは、特別な才能を発揮する神童でもありませんでした。ごく普通の子となって知性と身体において成長されました。それと共に《神と人とに愛された》とあるように、人格や信仰において成長されました。イエス・キリストの成長のお姿は、神の御業や導き、神への応答の結果がただちにわかる場合だけではなく、長く時間をかけて明らかになる場合もあることを示しています。

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天の父なる神様、あなたの教えを愛し、あなたの御言葉を心に宿す者たちを、あなたは《ときが巡り来れば実を結ぶ》幸いに至らせてくださいます。その《とき》を心に留める歩みを助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン(参照 詩編1編3節)


1/09/2023

この日も主と共に【783】イエス・キリストの備え(2)

イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカによる福音書2章49節)

***

イエス・キリストは12歳の時、過越祭(すyぎこしさい)を祝うために両親と共に都エルサレムに上られましたが(参照申命記16章1、16節)、旅の途中で行動を別になさいました。

ヨセフとマリアはわが子の姿を見失い、心配しました。

しかし、イエス・キリストは神を《自分の父》と呼び、神に祈る神殿にいることは《当たり前》だと言われました。

当時ユダヤ人の男子は13歳で成人となりました。

イエス・キリストは、神とご自分の特別な関係を意識し、深めながら、一人の成人として成長されました。

***

天の父なる神様、御子イエスによって、わたしたちもあなたを天の父とお呼びしながら成長し、また、周囲の人々の成長の益となる歩みができるように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

1/08/2023

この日も主と共に【782】イエス・キリストの備え(1)

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカによる福音書2章21節)

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イエス・キリストはヨセフとマリアの子としてお生まれになり、①生後八日目に《割礼》を受けられました。すなわち、神がかつてアブラハムの間に結ばれた、祝福の契約を受け継ぐ者となられました(創世記17章10節、レビ12章3節)。②《イエス》という名付けられました。「神は救う」という意味の名前に、すでにご自分の使命が表されました。③律法に従い、神殿で神に献げられました(22、23節、参照出エジプト13章2節)。イエス・キリストの生涯は初めからすでに、神の御心のためにご自身を備える歩みでした。

***

天の父なる神様、御子イエスがあなたの御心のためにご自分を備えてくださったことによって、わたしたちにもあなたと共に歩む道が開かれていることを感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/07/2023

この日も主と共に【781】福音書(7)

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネによる福音書20章31節)

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『ヨハネによる福音書』は、イエス・キリストが奇跡や病気のいやしを行われたことを記録し、それらはみなイエス・キリストが神の御子であることを示す《しるし》であると述べています(30節)。そして、このお方が十字架にかかって死なれ、三日目に復活されたことによって、わたしたちは神と共に生きることができるようになりました(参照ヨハネの手紙一4章10節)。イエス・キリストが今も与えてくださる《命》とは、神の愛と共に生きる命です。

***

天の父なる神様、御子イエスの十字架と復活によって、わたしたちを受け入れてくださることを感謝します。あなたの愛に留り、あなたと共に歩むものとしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/06/2023

この日も主と共に【780】福音書(6)

万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネによる福音書1章3、4節)

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『ヨハネによる福音書』は、イエス・キリストを《言(ことば)》、《命》、《光》と表現します。それは、このお方がわたしたちに深く関わり、まことの神を示し、恵みと真理を与えてくださるからです(16~18節)。イエス・キリストは、①世界の創造に先立って初めからおられました(1、2節)。②人となってこの世に来られ、人と共に生きてくださいました(9、11節)。③今もわたしたちの心に来てくださり、信じる者たちを《神の子》としてくださいます(12、13節)。

***

天の父なる神様、御子イエスを通してわたしたちに近くいてくださることを感謝します。御子とあなたとの交わりを深め、命を豊かにする歩みを導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/05/2023

この日も主と共に【779】福音書(5)

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカによる福音書19章10節)

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イエス・キリストは徴税人のザアカイの家に泊まられました(5、6節)。当時、徴税人は周囲の人々から嫌われていました。しかし、イエス・キリストはあえてザアカイの友となられました。この出来事を通してザアカイは神の愛を知り、新しい人生を始めることができました。『ルカによる福音書』は、イエス・キリストがザアカイだけでなく、世の中で立場の弱い人たち、低く見られている人たちの友となられたことを数々記録しています。イエス・キリストはすべての人を神の愛、救い、神の国へと招いておられます。

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天の父なる神様、わたしたち一人一人を大切に覚え、探し出し、受け入れてくださることを感謝します。さまざまな状況に置かれる時に、そこにも御子イエスが近づいてくださり、神の国としてくださる幸いをお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/04/2023

この日も主と共に【778】福音書(4)

敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。(ルカによる福音書1章3節)

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ルカやテオフィロはユダヤ人ではありません(異邦人)。しかし、ルカはテオフィロに、イエス・キリストの救いが《わたしたちの間で実現した事柄》であり、イエス・キリストを救い主と信じる《教えが確実なものであることを、よく分かって》ほしいと願いました(1-2、4節)。そこで多くの資料や証言を集め、調べ、『ルカによる福音書』にまとめました。ひとりの人の救いと人生のために力を注いで作られたこの福音書は、迷い出た一匹の羊を見捨てず、探し出すと言われた神の愛を映し出しています(参照15章4節)

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天の父なる神様、聖書の言葉を今のわたし自身に届けられている言葉として耳を傾け、あなたの恵みを知り、心と暮らしを確かな土台の上に築かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/03/2023

この日も主と共に【777】福音書(3)

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコによる福音書10章45節)

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イエス・キリストは神の御子であり、すべての人を救うお方としてこの世に来られました。しかし人々を屈服させるのではなく、むしろ人々にお仕えになり、ご自分の命をも犠牲にされました。そのようにしてイエス・キリストは神の御心に従う道を歩み抜かれました。その極みが十字架の死と復活でした(参照 8章31節)。『マルコによる福音書』は、イエス・キリストがわたしたちの救いのために、苦しみさえも負ってくださった神の僕(しもべ)であると証ししています。

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天の父なる神様、御子イエスがご自分の命を献げるほどにわたしたちを愛し、罪と死から救い出してくださったことを感謝します。あなたの御心と共に歩まれた御子イエスの後に続くものとならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


1/02/2023

この日も主と共に【776】福音書(2)

言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。(マタイによる福音書8章11節)

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イエス・キリストはイスラエル人(ユダヤ人)としてお生まれになりました。しかし、イエス・キリストはイスラエルの一国、一民族の指導者を超えるお方、世界のすべての人の救い主であると聖書は証言します。イエスご自身も、《天の国》すなわち神の国について、イスラエルの先祖の《アブラハム、イサク、ヤコブ》とその他の《大勢の人》が共に集まる所であると語られました。そのような《天の国》の幸いを分かち合う場所として、イエス・キリストは教会・小隊を建て上げ、支えておられます。

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天の父なる神様、共に御子イエスを信じ、この世界に証しできるように、そして、共にあなたの御国に集えるように、教会・小隊を祝福し、一人一人を力づけてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


この日も主と共に【775】福音書(1)

わたし〔イエス〕が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイによる福音書1章1節)

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新約聖書には、イエス・キリストの生涯と教えを伝える四巻の「福音書」が収められています。その一つ、『マタイによる福音書』は、イエス・キリストが《律法や預言者を・・・完成するため》に来られたお方であると伝えます。それは、イエス・キリストこそが聖書の言葉を真の意味で実現されるお方、神の御心を実現されるお方であるということです。それですからイエス・キリストを信じる人生とは、聖書に示された神の御心が実現することを発見する人生でもあります。そのような日々が今年にも続いています。

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天の父なる神様、新しい年が始まりました。この年も聖書の言葉を受けとめ、御子イエスの歩みに続きながら、あなたの恵みを見出す日々へと導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン