10/31/2020

この日も主と共に【132】ヤハウェ・オリ(主はわたしの光)

主はわたしの光、わたしの救い 
わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。
・・・わたしの心は恐れない。
・・・わたしには確信がある。
(詩編 27編1、3節) 

神さま、
あなたは、「わたしの光」、わたしたちの心と歩みを照らし出してくださるお方です。そのために聖書の御言葉を与え、また、世の光として、御子イエスを与えてくださいました。今、この世界には、不安や恐れが人々にせまり、闇のように心を覆うような出来事が続いています。どうか、あなたを仰ぎ、心を確かにして歩むものとしてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/30/2020

この日も主と共に【131】ヤハウェ・ホシア(主よ、お救いください)

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。
彼らは力を失って倒れるが 
我らは力に満ちて立ち上がる。
主よ、王に勝利を与え 
呼び求める我らに答えてください。
(詩編 20編8~10節) 

神さま、
あなたは、「勝利を与えてくださる主」、ご自分を信頼する者たちを守り、力づけてくださいます。自分の立場や能力や持ち物を誇り、互いに優劣を競う生き方から自由にしてください。あなたの御力のもとに留まり、心にも、生き方にも健やかな誇りを持つものとしてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/29/2020

この日も主と共に【130】ヤハウェ・エル・エメト(真実の神)

まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。
わたしは空しい偶像に頼る者を憎み
主に、信頼します。
(詩編 31編6、7節) 

神さま、
あなたは「まことの神」です。計り知れない知恵をもってこの世界を支えておられます。今も御言葉を通して、わたしたちの命にとって何が必要で、大切なことかを教えくださいます。移ろうものごとによらず、あなたの真理を確かな土台とする日々を築かせてください。あなたと共に生きる喜びを見出しながら、「アーメン(真実です)」という言葉を心から口にすることのできる歩みを導いてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/28/2020

ブライアン・ペドル大将によるメッセージ(2020年10月25日のため)

ブライアン・ペドル大将による聖書からのメッセージが、インターネット(Facebook)で公開されました。以下に要旨を翻訳し、紹介します。 

 

主に向かってわたしは歌おう。・・・
主はわたしの力、わたしの歌 
主はわたしの救いとなってくださった。
(出エジプト記15章1、2節) 

この数週、わたしたちは、『出エジプト記』を読んでいます。 

『出エジプト記』は、〔エジプトの王〕ファラオの圧政に苦しむ〔イスラエルの〕人々の様子から始まります。しかし、神は彼らの苦しみをよくご存知であり、救いの御業を開始されました。神は、遠く離れた地で羊飼いをしていたモーセを召して、イスラエル人を抑圧の中から導き出すために、彼をエジプトへと戻されました。 

ファラオとのさまざまな対決を経て、ついにモーセとイスラエル人は神の命令を受け、〔エジプトを〕去ることとしました。ファラオは彼らを捕らえようとし、紅海〔葦の海〕まで迫りました。そこで、神が行動を起こされました。創造者〔である神〕が作られた世界、 すなわち水、風、大地の諸力が、奴隷〔であったイスラエル人〕を解放するために役立てられました。 この〔神による〕解放の結果、イスラエル人は、「主を畏れ、主と その僕モーセを信じた」のでした(14・31)。 

抑圧者の驚異から助け出されたとき、イスラエル人のしたことは注目すべきものです。 

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。 主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し・・・わたしの救いとなってくださった。(1、2節) 

自分たちの自由が実現したときに、イスラエル人が最初に行ったことは、神を賛美して歌うことだったのです。アーメン! 

***** 

救世軍人も、自分たちを救ってくださった神を賛美するために、日曜日ごとに集まります。実際のところ、このしばらくは共に集まることができない時期を過ごしており、わたしたちの声はいくぶんか小さいかもしれません。しかし、このパンデミック〔新型ウイルスの世界的大流行〕によって、わたしたちに自由をもたらしてくださる神にささげる賛美が減ってしまったということはけっしてありません。 

歌うことは、わたしたちの世界において、解放をもたらす運動の重要な一部を担ってきました。

〔たとえば、〕南アフリカにおける自由のための運動〔訳注・人種隔離政策への反対を訴える運動〕においても、歌うことが伴っていました。また、アメリカ合衆国における 公民権運動においても、歌うことが大切な役割を果たしました。 この運動はマーチン・ルーサー・キングが指導者となって行われたもので、当時の国や権力による人種差別に対して反対するものでしたが、その抗議が歌うことによって表明されました。 

音楽は、ものごとを動かす力があります。音楽は、ゆらぐことのない神の愛と正義を推し進めるのです。

救世軍は、豊かな音楽の伝統を引き継いでいます。それは、とくに救世軍の歌集に表れています。これらの歌を握りしめて、わたしたちは何年にもわたって神を賛美し続けてきたのです。 

神への賛美においては常に、 新しい賛美を生み出す創造的な力(クリエイティビティ)が必要です。わたしたちには音楽が必要です。共に歌うことが必要です。今の 時代においても、神を賛美する ことが必要です。そのようにして、わたしたちは現代の抑圧に対抗していくのです。わたしたちは 主〔なる神〕をたたえます。主が わたしたちの救いとなってくださったからです。 

***** 

『出エジプト記』の15章を読むときに、わたしは、この賛美の 歌の中にじつにたくさんの神のイメージ(心象)が描かれていることに感銘を受けます。

神は、 「いくさびと〔戦士〕」です(3節)。神は、群れを導く羊飼いです(13節)。神は、新しい地に人々を 植え付ける農夫です(17節)。

そして、19章において、神は次のようにイスラエル人に語られました。 

あなたたちは見た 
わたしが エジプト人にしたこと 
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて 
わたしのもとに連れて来たことを。(19・4) 

神は、鷲の母鳥のようなお方です。雛(ひな)が空を飛べるようにと巣から押し出す〔ようにして、人を新しい境地へと向かわせられる〕のです。 

ここで、救世軍のなかで指導の働きを担っている人々にお伝えしたいことがあります。

みなさんが長年にわたって礼拝について取り組んでこられたときに、どのようにして、聖書に数多く記されている神のイメージ(心象)を 取り上げようとしてこられたでしょうか。

そうです、聖書に啓示されている神〔のイメージ〕と真実に共鳴するものであるならば、 現代のイメージを用い〔て、現代の人々が神をよりよく知ることができるようにす〕る余地はまだ残されています。

ただし、わたしたちの 礼拝の《深み》は、〔人間の表現方法によるのではなく、あくまでも〕 聖書に記されている神、わたしたちの救いである神のイメージをさまざまに探求するなかで生まれてくることでしょう。 

***** 

もう一つ心に留まることがあります。

出エジプト記15章の賛美の歌は、《個人の賛美》であるとともに、《共同体の賛美》でもあるということです。

2節に次のように述べられています。 

主はわたしの力、わたしの歌 
主はわたしの救いとなってくださった。(2節) 

また13節では次のように述べられています。 

あなたは慈しみをもって贖われた民を導き 
御力をもって聖なる住まいに伴われた。(13節) 

それと同じように大切なことは、出エジプト記15章の賛美は、《男女が共に歌う賛美》であったということです。

この賛美はモーセに言及するところから始まりますが〔1節〕、終わりにはモーセの姉、ミリアムに言及しています〔20節〕。ミリアムは、救世軍のタンバリンのようなすばらしい楽器を手にしていました。そして、他の女性たちにも加わるようにと招きました。彼女たちは一緒にタンバリンを手にして踊り、 主が「大いなる栄光を現」されたと〔20、21節〕、主に向かって 賛美をささげました。 

わたしたちが集まる礼拝も、 女性、男性、子どもたちが共に 集まるようにと招く礼拝です。 そして、わたしたちの救いである神を共にたたえるようにと招く礼拝です。世界の各地において、民族・言語・文化・音楽表現も異なる環境の下、〔神を賛美するために〕救世軍人が共に集まっています。 

わたしたちを愛し、助け出してくださる神に向かって、わたしたちは賛美をささげます。

どうか、〔これまでもそうであったように、〕 これからも主に対して、共に賛美をささげるものでありたいと願います。

アーメン

この日も主と共に【129】ヤハウェ・ギボル・ミルカマー(戦いに勇ましい主)

城門よ、頭を上げよ 
とこしえの門よ、身を起こせ。 
栄光に輝く王が来られる。 
栄光に輝く王とは誰か。 
強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。 
(詩編 24編8節) 

神さま、
あなたは、「雄々しく戦われる主」です。わたしたちのために御力をふるい、道を開いてくださいます。そして、御子イエスの死と復活によって、罪と死にも勝利されました。弱さを覚えるときにも、あなたの愛と力を思い起こして歩み続けることができるように助けてください。あなたがわたしの旅路に共にいてくださることを感謝します。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/27/2020

この日も主と共に【128】エル・シムカト・ジリ(わたしの大きな喜びである神)

あなたの光とまことを遣わしてください。・・・
神の祭壇にわたしは近づき 
わたしの神を喜び祝い
琴を奏でて感謝の歌をうたいます。
神よ、わたしの神よ。
(詩編43編3、4節) 

神さま、
あなたは、「わたしの大きな喜び」です。あなたによって、自分の命が大切に覚えられていることを知りました。御子イエスによって、死の闇から助け出されました。聖霊によって、あなたの愛がわたしの心に届けられています。心に影を落とし、人生を色あせたものにしようとする状況にみまわれるときにも、あなたを見上げる思いを守り、あなたと共に生きる喜びに立たせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/26/2020

メッセージ「命は神の手の中にある」コヘレトの言葉9章1~12節

【説教要旨】 

神戸小隊 聖別会
2020年10月25日(日)
コヘレトの言葉9章1~12節
「命は神の手の中にある」 

Ⅰ 実りの季節を迎えて 

10月も終わりに近づきました。小隊の訪問で郊外に出たときに、稲刈りを終えた田んぼやコスモス畑を見ることができ、秋の実りや季節の移り変わりを実感しました。 

今年は新型ウイルスの感染が広まり、その影響が今も続いています。緊張や不安が拭えない暮らしが続いています。それでも、わたしたちがこれまで生かされてきたことを思います。また、今このときにも、すべての命を創造し、愛しておられる神さまが確かにおられて、わたしたちの命に関わりをもってくださっていることを思います。

どうか、聖書の言葉と祈り、小隊(教会)の交わりを通して、神さまの命の営みのなかをご一緒に歩み続けたいと願います。 

Ⅱ 死を覚えつつ、生きることを喜ぶ 

『コヘレトの言葉』の著者(コヘレト、集会の中で語る者という意味)は、「空しい」という言葉をくりかえしながら、この世界や人間のありさまを見つめ、生きる意味を考えています。

コヘレトの言葉9章1~12節においては、次の点に注意を促されます。 

第一に、人はみな「同じひとつのこと」、すなわち死という結末が待っています(1~6節)。

ただし、コヘレトにとって死の深刻な問題は、それが肉体の活動が停止することにとどまらず、人の心にも感化を及ぼし、むしばむものだからです。 

太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。(3節) 

コヘレトはまた、死の領域である「陰府」が、「仕事も企ても、知恵も知識も」ない状態であるとも語ります(10節後半)。

今年、新型ウイルスによって、これまでの知識や習慣では対応しきれない状況が多く生じてことを考えるとき、現代もまた死が影のようにつきまとい、力をふるっていると言えるのではないでしょうか。 

しかし、第二に、それでも人は神さまによって、「今このとき」を喜んで生きる道があります(7~10節)。 

さあ、喜んであなたのパンを食べ 気持よくあなたの酒を飲むがよい。 あなたの業を神は  受け入れていてくださる。 どのようなときも純白の衣を着て 頭には香油を絶やすな。 太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい。 それが、太陽の下で労苦するあなたへの 人生と労苦の報いなのだ。(7~9節前半) 

パン、酒、純白の衣、香油など祝宴のイメージに重ねて、生きる喜びを味わう姿が描かれています。神さまを信じる人は、死を覚えつつ、その上で、人生を喜ぶことを知るというのです。それは、「神はすでにあなたのわざをよみせられたから」です(7節、口語訳)。わたしたちの信じる神さまは、ご自分を信頼する者たちが生き、働くことを、喜ばれるお方です。

それですから、コヘレトは、「すべてあなたの手のなしうる事は力をつくしてなせ」と呼びかけます(10節前半、口語訳)。たとえ、『これをしたところで何になろう』と空しさが迫るとしても、災いや危険がふりかかるとしても(11、12節)、喜びをもって生きる道は閉ざされていません。

コヘレトは、彼自身が振り子のように心が揺れる姿をそのまま記しながら、神さまが人を命に向かわせるお方、生きる方向に向かわせるお方であることを伝えています。 

Ⅲ イエス・キリストに結ばれて生きる 

コヘレトは、今日の箇所に至るまでにも、人生を喜び楽しむことを折々に語ってきました(2:24、25、5:17~19、8:15)。

それらとくらべて、今回注目されるのは、「愛する妻と共に生きるがよい」という勧めが含まれていることです(9節)。(2018年に出版された聖書協会共同訳では、「愛する妻と共に人生を見つめよ。」)

人生の空しい日々さえ、愛する妻と共に見つめて生きるならば人生の喜びに通じる。神さまを信頼して生きる喜びは、神さまが与えてくださる人との出会い、人との関係を生きる喜びにもつながっています。 

そして今や、わたしたちは、コヘレトが言う「妻」のような人生のかけがえのないパートナーとして、イエス・キリストと出会いました。

キリスト者(クリスチャン)は、イエスさまと結び合わされた人たちです。ご自身を犠牲にするほどのイエスさまの愛によって、自分自身が新しく作られていく喜びを知った人たちです。わたしたちの命を、人生を空しくさせるような事態を見せられながら、それでも主イエスと共にその日々を見つめ、さらにその先にある神の御業を見つめて生きていく。そのような生きる喜びの場がイエスさまのもとに、また、イエスさまを頭(かしら)とする小隊(教会)にあります。

わたしたちはくりかえし、神の喜びの場に立ち返り、そして新たに歩み出してまいりましょう。 

キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった
・・・キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、
教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
・・・わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
(エフェソの信徒への手紙5章25~26、30節)

この日も主と共に【127】エル・サリ(神はわたしの岩)

主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。・・・
主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。
わたしの救いの岩なる神をあがめよ。
(サムエル記下 22章2、47節) 

神さま、
あなたは、「わたしの岩」となってくださるお方、わたしたちを愛し、救い、守るとの御心をけっして変えることのないお方です。心や体を害するものがせまり、自分の意志や力だけでは応じきれないときに、どうぞわたしを支え、あなたの御力によって助けてください。家族や友をも顧み、災いや危険から遠ざけてお守りください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/24/2020

この日も主と共に【126】エロヒム・オジ・リ(神はわが助けぬし)

神よ、わたしの祈りを聞き
この口にのぼる願いに耳を傾けてください。・・・
見よ、神はわたしを助けてくださる。
主はわたしの魂を支えてくださる。
(詩編54編4、6節) 

神さま、
あなたは、「わたしを助けてくださるお方」です。わたしたちの祈りに耳を傾け、言葉にならない思いさえも知り、御手を差し伸べてくださいます。問題や困難に道が阻まれるときに、どうか助けてください。わたしの置かれている状況にあなたが介入してくださること信じ、なお最善を尽くすことができますように。家族や友が苦しみ悩むときにも、あなたの助けの御手によって支えてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/23/2020

リンドン・バッキンガム中将によるメッセージ(10月18日のため)

参謀総長 リンドン・バッキンガム中将によるメッセージ 

2020年10月18日のため 

フェイスブックで発信されたメッセージの要旨を翻訳、紹介します。

モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。
彼らに、『あなたたちの先祖の神が、
わたしをここに遣わされたのです』と言えば、
彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。
彼らに何と答えるべきでしょうか。」 (出エジプト記3章13節) 

ブロンウィン中将とわたしは共に、救世軍の士官として世界のさまざまな地で奉仕する恵みに与ってきました。どの地においても経験してきたことは、わたしたちの名前〔Bronwyn ブロンウィンとLyndon リンドン〕をどのように読むのかということについて人々が苦労するということです。わたしたちの名前はいろいろな読み方をされました。とくに妻の場合はそうでした。

しかし、わたしたちの方から〔正しい読み方を〕主張することはありませんでした。なぜなら、人が誰かの名前を知るということは、相手との関係が新しく変わることを意味するからです。

* * * 

『出エジプト記』の始めにおいて、わたしたちは、イスラエル人が抑圧されていく次第をみました。新しいファラオ〔エジプトの王〕がイスラエル人を奴隷にしました。また、モーセがナイル川から、命からがら助け出されたこともみました。

〔王女の子として成人した〕モーセは、〔エジプト人がイスラエル人を虐げる場面、イスラエル人同士がけんかをする場面に遭遇し〕争いに介入しましたが、〔エジプト人を殺したことによって〕かえって自分の命を 危険にさらすことになりました。

 〔追っ手から逃れてミディアン地方にたどりつき、長い年月を過ごした〕ある日、モーセは羊の群れを連れて、荒れ野の奥に行き、ホレブ山に着きました〔3・1〕。そのとき突然、彼は、何ものかによって引き止められていることに気づきます。柴が燃えていたのですが、炎で燃え尽きることがなかったのです。モーセは好奇心から、 柴に近づきました。そのとき、 「モーセよ」と呼ぶ声がしました。そうです、神がモーセの注意をご自分に向けられたのです。

神は 語られました。

わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。
わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。(3・10)

神は、神の民〔イスラエル〕を解放するために、モーセを神の民〔イスラエル〕の指導者として召されたのです。 

* * * 

モーセは、燃える柴の中から 神の声を聞きました。しかし、 彼は疑問や異論を持ちました。「もし、イスラエル人がわたしを信じなかったらどうするのですか。もし、わたしの話を聞こうとしなかったらどうするのですか。わたしはけっして雄弁ではありません。どのようにしたら、あなたがわたしを遣わされたことを、人々は確信できるのでしょうか。」

モーセはさらに重要な質問を 投げかけます。それは、神がどのようなお方であるのかに関わる問いでした。

「彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、 彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(3・13)

この問いにこそ、 モーセと神の対話の核心があります。神はモーセの名前を知っておられました。今度は、モーセが神の御名を知るときなのです。 神の民〔イスラエル〕を導くなかで、モーセは神の御名にどのような意味があるのかについて知っていくことになります。

 * * * 

燃える柴における神とモーセの出会いは、神の召命について 考えを促します。

まず明らかにしたいことは、神は、〔神からの〕 使命(ミッション)を果たす人生へとわたしたちを招かれるということです。神は、この〔神からの〕使命を果たすために、わたしたちが力を尽くすことのできる《天職 vocation》を備え、それぞれを 異なった働きにつかせてくださいます。ある人は、《天職》として、神の民〔教会・救世軍〕を導く働きに召されていることでしょう。これには、救世軍の士官としての職務も含まれています。 

そうすると、この〔モーセと神の出会いの〕物語から、神の召命についてどのようなことを学ぶことができるでしょうか。

 注目したいのは、モーセが好奇心によって近づいたところで、 神の声を聞いたということです。みなさんが目にするもののなかで、〔モーセのように、〕心が惹かれ、神のもとへと招かれるようなものがあるでしょうか。

 次に注目したいのは、神がモーセの疑問や確信の無さも受けとめられたということです。今日のわたしたちにも、次のような問いを抱えるのではないでしょうか。

『しかし、神さま、わたしは この国にいる人々とは肌の色も違います。どのようにして彼らに受け入れられるのでしょうか。』 

『しかし、神さま、どのようにしてミレニアル世代〔注・2000年頃に成人になった世代〕の人々に、あなたの救いをよりよく伝えることができるでしょうか。』

『しかし、神さま、経験の浅い自分が、どのようにして〔人々を〕導くことができるでしょうか。』 

わたしたちの問いを神は受けとめてくださいます。 

しかしながら、次に注意を向けたいことは、モーセが神の御名を知らないときにも、神がモーセの名前を知っておられたということです。

神は、モーセが不正に 直面した出来事から、彼の勇気を知られました。モーセが羊の群れを飼い、また、〔この後にも〕ご自分の民〔イスラエル〕を導くところから、彼の責任感を知られました。 神は、わたしたちの人格、性格、能力を御心に留め、それらも合わせてわたしたちを招かれます。 神は、〔ご自分の民を〕解放される神、救われる神です。モーセのような、みなさんのような、わたしのような、ごくふつうの人々を通して、神は働かれ、ご自分のすばらしい目的を成し遂げられるのです。 

* * * 

わたしは、このように神と向かい合う救世軍人が多くいることを強く思います。

みなさんも 《燃える柴》に近づかれるとき、聖なる神の臨在に気付かれることでしょう。神が自分の人生を 召しておられることを知るとき、疑問や異論が浮かぶかもしれません。憤慨することもあるかもしれません。しかし、神はあなたの名前を知っておられます。そして、神は、ご自分の御名を知るようにとあなたを招かれます。神の民〔教会・救世軍〕を導く経験を通しても、神を見出し、神と親しく 共に生きるようにと招かれるのです。 

どうか、みなさんが、自分の 人生に対する神の召命を理解することができるようにと求めていかれますように。そして、神が自分の名前をも知っていてくださるという確信を得ることができますように。そして、神の招き〔に応答する人生〕を通して、神の御名を知るものとなりますように。

神は、みなさんを招いておられます。 アーメン! 

(訳 立石真崇)

※小隊における祈りの資料として、 個人で訳出しました。
〔 〕は翻訳上、日本語を補った箇所です。

この日も主と共に【125】ヤハウェ・サバオート(万軍の主)

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。・・・
万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
(詩編 46編9、12節) 

神さま、
あなたは、「万軍の主」、諸々の権威にまさる力あるお方です。あなたは天の御使いを遣わし、ご自分をより頼む者たちを守られます。また、天の軍勢をこの世界に遣わし、救いの恵みを高らかに告げられました〔参照ルカ2:13、14〕。あなたの救いと守りを感謝します。目にはさまざまな出来事が映るときに、そこもあなたが治めておられることを思い、平安を得て歩むことができますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/22/2020

この日も主と共に【124】ヤハウェ・シャロム(平和となられる主)

ギデオンは言った。
「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」
主は彼に言われた。
「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」
ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。
(士師記6章22~24節) 

神さま、
あなたは、「平和の主」です。困難や問題がふりかかるときに、あなたがわたしの側に立ってくださいます。そして、死から復活された御子イエスが共に生きてくださいます。わたしたちの人生に、主の平和の宣言を響かせてくださっていることを感謝します。あなたから勇気と力をいただき、心をたしかにして歩むものとならせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/21/2020

この日も主と共に【123】ヤハウェ・イルエ(主は備えてくださる)

アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
(創世記22章13、14節) 

神さま、
あなたは、「備えてくださる主」、恵みと助けを備えてわたしたちを導いてくださいます。なによりも御子イエスを救いの道として備え、わたしたちを死から命へと招き入れてくださいました。道がふさがり自分の力では先に進めないときにも、あなたの備えによって守り、支えてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/20/2020

メッセージ「教会の挨拶」ローマの信徒への手紙16章1~16節

【説教要旨】

神戸小隊 聖別会
2020年10月18日(日)
ローマの信徒への手紙16章1~16節
「教会の挨拶」 

Ⅰ 神さまの家族 

教会(小隊)のなかには、ふだんの暮らしとは異なる意味合いの言葉遣いがあります。たとえば、信仰を持つ者たちがお互いを呼ぶときに用いる、「兄弟」、「姉妹」という言葉です。 

聖書によれば、神さまは「天におられるわたしたちの父」であるお方です(マタイ6:9)。また、イエス・キリストは、神さまの「独り子」です(ヨハネ3:16)。そして、イエス・キリストを信じ、神さまとの正しい関係に受け入れられた者たち、救われた者たち、わたしたちもまた、「神の子」としてされました(参照 ローマ8:14~16、ガラテヤ3:26)。それゆえ、教会(小隊)で信仰生活を生きるわたしたちは、「神の家族」とされ(エフェソ2:19)、イエス・キリストによる兄弟姉妹として向かい合うことができるのです。 

(なお、わたしたち救世軍は、これらに加えてさらに「戦友」という言葉も使います。同じ志に立ち、一人の指導者に従って、共に進むという心が込められています。) 

Ⅱ パウロからローマの教会への挨拶 

『ローマの信徒への手紙』は、伝道者パウロがまだ直接訪ねたことのないローマ教会に宛てて書いた手紙です。手紙の本論は、大切な信仰の教え(教理)や信仰生活の勧めを取り上げています。手紙の結びは、具体的な名前が数多く登場しながら、パウロの心のこもった挨拶が記されています。

 今日の日曜日は、救世軍では『女性部サンデー』という趣旨を持っています。そこで、パウロが挨拶を送る人々のなかから、4名の女性に目を留めたいと思います。

 ① フェベ(1節)は、ケンクレアイ教会の「奉仕者」でした。「奉仕者」は教会の働きの名称で、救世軍流にいえば『ケンクレアイ小隊のフェベ軍曹』です。ケンクレアイは港町でしたので、旅をするキリスト者(迫害で逃れた人もいたでしょう)を迎えた「援助者」でした。

 ② プリスカ(3節、使徒言行録ではプリスキラ)は、夫アキラと共にローマからコリントへ移住し、パウロと出会いました。パウロと同じ「テント造り」をしながら、伝道と迫害・困難を共にしました(参照 使徒18章)。二人の名前が宛先に含まれていることから、夫婦がふたたびローマに戻り、伝道していることがうかがえます(5節、彼らの家の教会)。

 ③ ユニアス(7節)は、パウロよりも先にキリストを信じました。キリストを信じる前のパウロは教会を迫害していたので、かつては“追う側”と“追われる側”でした。しかし、キリストを信じたパウロと「同胞」となり、迫害も共に経験しました。 

ルフォスの母(13節)は、パウロにとっても母であると言われています。そして、ルフォスという名前は、イエスさまが十字架にかかられたときに、イエスさまに代わって十字架を担ぐこととなった、キレネ人シモンの息子としても記録されています(マルコ15:21)。これが同一人物を指しているとは、文書としては断言しきれないのですが、おおいに可能性があります。もしかすると、『わたしの夫は、主の十字架を担いだのですよ。』『そうでしたか、わたしはかつて教会を迫害しましたが、その途上、復活された主にお会いしました。そして救われたのです。』といった会話がかわされたかもしれません。

このような人たちを含めて、パウロの挨拶は、個人では27名、集まりとしては5つに送られています。また、この後には、差出人としてパウロのほかに、8人の名前が記されています(21~23節)。カタカナの名前がたくさん出てきますが、これらからも、心があたたかくなるような、信仰者が共に生きる姿を知ることができます。

 Ⅲ 「主に結ばれた者」として生きる 

パウロとローマ教会の関係の土台にあったもの、それは、パウロがくりかえし使う言葉で「主に結ばれている」ということでした。

今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、
罪と死との法則からあなたを解放したからです。・・・
神の霊に よって導かれる者は皆、神の子なのです。
(ローマ8章1、2、14節) 

教会(小隊)が「家族」、「兄弟姉妹」、「戦友」と述べるとき、ただ気心が通じている、お互いを知っている、考えが合うという意味ではありません。

神さまが、イエス・キリストによってわたしたちを死から救い出し、新しい命、永遠の命に生きる者としてくださいました。この神さまからくる“恵みの事実”が、人種・性別・年齢・社会的な立場を越えて、わたしたちを同じところに立って生きることを可能にする、神さまのもとで共に生きることを可能にするのです。 

今日、献げる『一円献金』についても、わたしたちはカンボジアの救世軍の人々と直接会ったわけではありません。知らないことのほうが多いのです。しかし、主に結ばれている者たちがその地にも生きています。同じ神の恵みによって、わたしたちは共に生かされています。それゆえ、心をこめて献金をささげるのです。

主イエス・キリストに結ばれる恵みに自らが生き、また、主イエスによる兄弟姉妹と共に生き、主イエスの救いの恵みに根ざして幸いを告げる教会(小隊)として歩んで参りたく願います。

この日も主と共に【122】エル・オーラム(永遠の神)

主よ、
あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
山々が生まれる前から 大地が、
人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。
(詩編 90編1、2節) 

神さま、
あなたは、「とこしえの岩」、「永遠の神」、変わることのないわたしたちの神です(参照 イザヤ書24:6、創世記21:33)。あなたの愛も、知恵も、救いの約束もけっして変わることがありません。それですから、あなたを信頼し、過去に捕らわれることがありませんように。将来を恐れることがありませんように。どうかわたしたちの歩みを導き、あなたの永遠の御国に至らせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/19/2020

この日も主と共に【121】ヤハウェ・ミコディシュケム(聖別する主)

自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする。
(レビ記20章7、8節)

神様、
あなたは、「わたしたちを聖別される主」です。わたしたちを死と滅びから救い出し、ご自分の愛と清さをもって「聖なる者」として作り上げてくださいます。どうぞ、心を新しくしてください。あなたの大切にされるものを、わたしも大切にすることができますように。たとえ小さい業であっても、あなたの愛と清さを宿すものとしてください。新しい自分を生きる喜びを与えくださったことを感謝します。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン 

10/17/2020

この日も主と共に【120】ヤハウェ・ツィドケヌ(主はわれらの正義)

〔主は言われる・・・〕
その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。
その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。
その名は、『主は我らの救い』〔注、口語訳では正義〕と呼ばれるであろう。
(エレミヤ書 33章14~16節) 

神さま、
あなたは、わたしたちの「正義」、「救い」となってくださるお方です。今、この世界はあなたを見失い、自分の思い通りにしたい欲望、相手を思い通りにさせたい欲望がまん延し、人の心が歪められてしまいます。どうか、あなたの正義によって、心と人生を直くしてください。救い主イエスによって、罪と死と災いを遠ざけ、お守りください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/16/2020

この日も主と共に【119】ヤハウェ・ラファ(癒す主)

モーセが主に向かって叫ぶと・・・
主は彼に掟と法とを与えられ、
またその所で彼を試みて、言われた。
「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、
彼の目にかなう正しいことを行い、
彼の命令に耳を傾け、
すべての掟を守るならば、
わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。
わたしはあなたをいやす主である。」
(出エジプト記 15章25、26節) 

神さま、
あなたは、「癒す主」です。わたしたちの心や人生が抱える傷や痛み、歪みや欠けを知り、必要な癒しと回復を与えてくださいます。あなたの御言葉によって、自分を顧みることができますように。あなたの愛と真理の教えという手当を受け、身も心も健やかに歩むものとしてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/15/2020

この日も主と共に【118】ヤハウェ・ラー(主はわが羊飼い)

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
(詩編23編 1~4節) 

神さま、
あなたはわたしの「羊飼い」です。あなたはわたしたちのために立ち上がってくださり、命を養い、災いから守ってくださいます。あなたのもとに身を寄せ、あなたと共に歩みます。わたしの内も外も癒し、健やかにしてください。あなたの恵みと力によって、人生を築かせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/14/2020

この日も主と共に【117】ヤハウェ・ニシ(主はわが旗)

モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、言った。
「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」
(出エジプト記 17章15、16節)

神さま、
あなたは「わたしの旗」となってくださるお方、わたしたちにご自身を示し、呼び集めてくださるお方です。あなたの御許(みもと)にこそ、わたしたちの救い、愛、助け、勝利があります。どこにいても、どのような状況にあっても、あなたが先頭に立ってくださっていることを感謝します。御子イエスと聖霊によって与えられた神の子の証しを帯びて、旗印を明らかにして歩むものとならせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/13/2020

この日も主と共に【116】アドナイ(わたしの主)

神よ、守ってください
あなたを避けどころとするわたしを。
主に申します。
「あなたはわたしの主。
あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
(詩編 16編2節) 

神さま、
あなたは遠く離れておられず、「わたしの主」となってくださるお方、わたしの運命を支えてくださるお方です(5節)。どうか、この世界にあふれる人の思いや声が、わたしの命を支配することがありませんように。あなたに信頼し、あなたの御言葉と御業によって人生を治め、祝福を取り次ぐものとならせてください。あなたがわたしたちを支え、平安のうちに導いてくださることを感謝します。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/12/2020

ルカによる福音書18章9~14節 「神に受け入れられる祈り」

【説教要旨】
神戸小隊 聖別会
2020年10月11日(日)
ルカによる福音書18章9~14節
「神に受け入れられる祈り」
 

Ⅰ 信じること、祈ること

目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。・・・
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。
わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
(詩編123編1~3節) 

『小隊(教会)は何をするところですか?日曜日に出かけていって何をするのですか?』という質問があるときに、どのような返事ができるでしょうか。

いろいろな言い方があると思いますが、大切にしている答えのひとつは、『わたしたちは小隊(教会)で祈ります』ということです。すると、ときにはこのような感想もあります。『クリスチャンになる人は、そんなに“お願いごと”があるのですか!』

もちろん、わたしたちの祈りには“願い”も含まれます。しかし、祈りは、それだけではありません。聖書は、わたしたちにとって“祈ること”は、神さまに作られたものの姿、まことに人間らしいあり方だと伝えています。“祈り”は、神さまと共に生きることそのものなのです。 

Ⅱ 「二人の祈り」のたとえ 

ルカによる福音書において、イエスさまは、弟子たちにたとえを用いて、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えられました(18章1~8節、やもめと裁判官のたとえ)。

そして、さらに別のたとえが続きます(9~14節、ファリサイ派と徴税人のたとえ)。

当時、“敬虔な人”の代名詞であったファリサイ派の人と、“罪びと”の代名詞であった徴税人が、それぞれ祈ったという話です。 

ファリサイ派の人は、神さまに感謝を捧げました(11、12節)。その感謝の理由は、聖書の掟(律法)を守ることができない“罪びと”とくらべて、自分が信仰をよく実践しているということでした。たしかに、「週に二度断食」、「全収入の十分の一」の献げものは、聖書の定める以上の行為でした(参照 レビ記16:29、申命記14:22、23)。 

それに対して、徴税人は、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈りました(13節)。これは深く悲しんでいる様子を表します。そして、ただ「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」と祈ったのでた。

これらの二人の祈りを示しながら、イエスさまは言われました。 

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、
この人〔徴税人〕であって、あの ファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(14節) 

「義とされる」とは、神さまに正しいと受け入れられる、神さまと正しい関係にあるという意味です。神さまと正しい関係に入れられたのは、ファリサイ派の人ではなく、徴税人だったというのです。 

ファリサイ派の人は確信に満ちて感謝を口にしました。しかしよくみると、それは自分と他人を比べ、自分で自分に合格を出し、神さまに報告するものでした。自分の証明になってしまっていたのです。

これは、わたしたちにとっても大切な教訓です。『なるほど、わたしは注意して、このようなファリサイ派の人のような祈りにならないぞ』と安心するならば、結局は、同じなのです。

イエスさまはこのたとえを「自分は正しい人間だとうぬぼれて(口語訳、自任して)、他人を見下している人々」に対して語られました(9節)。自分で自分自身を判断し、評価し、証明する心や生き方からは、神さまに届き、神さまと共に生きる祈りは生まれません。 

徴税人が祈った「憐れんでください」という言葉には、「罪の償い」という意味合いがあります。彼は、ただ気の毒に思ってくださいというのではなく、壊れた関係が回復され、和解することを願いました。しかも、神さまご自身に願ったのです。もはや自分の力では、神さまに顔が向けられない、神さまのもとに帰ることさえもできない自分を認め、『あなたの憐れみ、あなたの赦しだけが、わたしが生きる望みなのです』と、自分の一切を神さまにゆだねたのです。イエスさまは、この祈りを神さまが聞かれ、徴税人を新しく生かしてくださったと語られました。そして、これが、わたしたちにも与えられている祈りなのです。 

Ⅲ わたしの命は神さまだけによる 

ローマ・カトリック教会では、信仰の営みとして“ゆるしの秘跡”、“懺悔(ざんげ)”を大切にしています。プロテスタントにおいても、礼拝様式を整える伝統に立つ教会は、“罪の告白と赦し”を含む礼拝を捧げます。その際には、『キリエ・エレエイソン(主よ、憐れみたまえ)』という歌詞の賛美を歌われることもあります。 

わたしたち救世軍の場合は、『恵の座』の祈りを大切にしています。『恵の座』は初期には『悔い改めの座』とも呼ばれていました。また、『恵の座』は、設備としては小隊の礼拝堂にありますが、わたしたちは同時に、『心の中に恵の座を持つ』という表現でお互いの祈りを育んでいます。 

わたしたちも、神さまの憐れみがあるからこそ、今、生きています。神さまのかぎりない愛と赦しを受け、新しい命に結び合わされて、神さまの作品として生きることができるのです。神さまの憐れみをご自身の憐れみとして、この世に来られ、ご自身を捧げてくださった神の御子、わたしたちの救い主イエス・キリストがいてくださるからです。これからも、このお方の御名によって共に祈り、歩んでまいりましょう。 

神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
(詩編51編3、4節) 

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、 主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる。
(イザヤ書55章6、7節)

ブライアン・ペドル大将によるメッセージ(2020年10月11日のため)

ブライアン・ペドル大将のメッセージ 要旨を以下に訳します。

  

主は言われた。
「わたしは、エジプトにいる 
わたしの民の苦しみをつぶさに見、
追い使う者のゆえに叫ぶ 
彼らの叫び声を聞き、
その痛みを知った。・・・」 
(出エジプト記
37節) 

これまでの数週間、私たちは『創世記』を読みながら、祈りの時を持ちました。そして、アブラハムとサラの生涯、ヤコブとラケルの生涯、ヨセフの生涯において、神がどのようにして働かれたのかを見てきました。『創世記』は、ヨセフがエジプトで暮らすようになったところで話を閉じます。

これまでを思い起こすと、ヨセフは〔兄弟たちに〕売られてしまい、エジプトに連れて行かれました。しかし、王の信頼を得て重要な職務を担うようになりました。そして、聖書の物語は『出エジプト記』へと続きます。聖書の第二番目に位置するこの書物は、わたしたちの神について、神の民について、神の民のリーダーシップ(指導者の資質)について理解するために、きわめて大切なものです。

*****

『出エジプト記』は、新しいファラオ(王)がエジプトを治めるようになったところから始まります。この新しいファラオはヨセフについて何も知りませんでした。ヨセフが賢くエジプトの経済活動を治め、それによって七年にわたる飢饉を生き延びたことも知りませんでした。また、ヨセフの親族がカナンの地からエジプトに移り住んだことも知りませんでした。そしてむしろ、イスラエルの民が自分の王国の脅威になるにちがいないと信じるようになりました。

新しいファラオは、イスラエルの民の数が増えることを恐れ、彼らを奴隷の身分にしました。イスラエルの民の暮らしに、達成しなければならない作業を課し、ファラオの権威を象徴するような都市の建設を命じました。

また、彼は、〔イスラエルの民の〕大量殺りくを計画し、実行に移していきます。〔イスラエルの民の間で〕誕生した子供が女子であれば生かされます。しかし、誕生した子が男子であると、ナイル川に投げ込まれることになりました。本来ならば、川は命を育むものです。しかし、そこが死の場所になったのです。

『出エジプト記』は、奴隷として捕らわれの身となったイスラエルの民についての物語を語り始めます。

*****

歳月は流れ、歳月は流れ、新しいファラオは〔聖書の中では具体的な〕名前を残すこともなく亡くなりました。しかし、〔イスラエルの〕民を抑圧する仕組みは存続しました。苦しみと痛みの中から、ヨセフの民は助けを求めて叫びました。

● この苦しみの只中(ただなか)で、神はどこにおられるのでしょうか。

● この奴隷の状態の中で、アブラハム、イサク、ヤコブの神はどこにおられるのでしょうか。

● わたしたちの世界のさまざまな抑圧の中で、神はどこにおられるのでしょうか。

● 家族が新型コロナウイルスに感染し、会うことさえかなわない人々の苦しみがある中で、神はどこにおられるのでしょうか。

● レスボス島の難民キャンプが火災に遭い、人々が苦悩の中にあるときに、神はどこにおられるのでしょうか。

〔訳注・今年九月末、ギリシャのレボス島にあった欧州最大の難民キャ
ンプ火災で消失、一万人以上の難民が行き場を失ったと報道されている。〕

〔そのような問いに対して、〕『出エジプト記』は、苦しみの叫びは神に届くこと、そして、神がその叫びを聞いてくださることを理解する助けとなってくれます。

主は言われた。
「わたしは、エジプトにいる
わたしの民の苦しみをつぶさに見、
追い使う者のゆえに叫ぶ
彼らの叫び声を聞き、
その痛みを知った。・・・」( 37

この「知った」という言葉は、親が自分の子どもたちに対するように、〔深く関わって〕親しく知っているということです。神は、わたしたちの苦しみを自分のことのように知ってくださいます。

神は、今日も人身取引の犠牲になっている人々の苦しみを知ってくださいます。神は、人種差別を受けている人々の苦しみを知ってくださいます。神と苦しみを受けている人々〔は無関係ではなく、むしろ両者〕の間には、親しい結びつきがあります。新しいファラオはヨセフを知らなかった。しかし、神は、ヨセフの〔子孫であるイスラエルの〕民の苦しみを知られたのです。このような〔人々の苦しみしみを知る〕ことから、神はご自分の救いの御業を開始されのです。

これから『出エジプト記』を読み進んでいく中で、わたしたちは、神が救いの御業をどのように実行していかれるのかを見ることができるでしょう。

*****

今のパンデミック〔新型ウイルスの世界的大流行〕の只中(ただなか)にあって、救世軍人は、苦しみの叫びに意識を向ける人々です。

神がそうであられたように、みなさんの多くが、今日の苦しみの叫びを身近に感じています。

自分自身も苦しみますし、奉仕する先で出会う人々も苦しんでいます。救世軍人の中にも、人種差別によって虐げられ、苦しむ状況にも身を投じている人々
がいます。救世軍人はまた、世界の各地で戦いの火の手が上がり、破壊的な状況がもたらされている苦しみをも知っています。

わたしたち自身も、苦しみの叫びに耳を傾けましょう。そして、神が救い出してくださる恵みに応答しましょう。わたしたちは、苦しみから距離(ディスタンス)を置くものではなく、むしろ寄り添い、応答してきました〔し、今後もそうでありたいのです〕。

苦しみを覚えている世界の中で、〔お一人ひとりが〕救世軍の使命を具体的に現していくときに、どうぞ祈りの支えがあることを覚えてください。

これからも、神が苦しみの叫びに耳を傾けてくださるお方であると、ご一緒に知っていくことができますように。

そして、このように〔神を〕知ることによって、変化がもたらされますように。

神の祝福がみなさんにありますようにお祈りいたします。 

 

※祈りの資料として、個人で訳出したものです。
日本語の読みやすさを考慮して日本語を補った箇所があり、〔 〕で区別しています。

この日も主と共に【115】エル・エルヨン(いと高き神)

わたしは心を尽くして主に感謝をささげ
驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
いと高き神よ、わたしは喜び、
誇り 御名をほめ歌おう。 
(詩編 9編2、3節) 

神さま、
あなたは「いと高き神」です。この世界を作り、公正をもって治め、裁かれます。そして、あなたは、わたしたちを滅ぼすためではなく、むしろ、罪を赦し、救うために、御子イエスの死と復活によって裁きを成し遂げられました。わたしたちを死の深い闇の底から、神の御国へと引き上げてくださることを感謝します。あなたの正しい御業によって、わたしの心と体を治め、お守りください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/10/2020

この日も主と共に【114】エル・シャダイ(全能の神)

アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
(創世記 17章1、2節)

神さま、
あなたは全能の神、すべてのことを成し遂げるお方です。その大きな御力を、あなたは、わたしたちの命を祝福するため、わたしたちが新しい人生を生きるために発揮してくださいます。全能でおられるゆえに、愛する独り子さえわたしたちの救いのために与えてくださいました。あなたの信実を感謝します。どうか、あなたの御力と約束と共に歩ませてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/09/2020

この日も主と共に【113】エル・ロイ(顧みられる神)

ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。
(創世記 16章13節) 

神さま、
あなたは、わたしたちを顧みてくださるお方です。悲しみも苦しみも、また、弱さや罪をも知って、助けを備え、救い出してくださいます。あなたのまなざしが共にあることを覚え、心に力を得て歩むものとしてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
 

*** 

これまでしばらくの間、わたしたちが『神さまの作品』として、どのように生かされているかに焦点をもって聖書の言葉を分かち合いました。今日から約20日、聖書にある神さまの呼び名に注目します。

10/08/2020

この日も主と共に【112】神のものとなった

あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
(ペトロの手紙一2章9節) 

神さま、あなたは、御子イエスを通して、わたしたちを選び、救い出し、新しい身元と仲間を与えてくださいました。わたしたちの人生を愛によって照らし、新しい意義と役割を与えてくださることを感謝します。この世界は、平静を保っているように見えても、その奥底では死と恐れの闇が猛威を振るいます。あなたの光の内に立ち、あなたがくださる希望を受けとめ、分かち合うものとならせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/07/2020

ブライアン・ペドル大将によるメッセージ(10月4日のため)創世記45章

ブライアン・ペドル大将が、フェイスブックを通して発信されたメッセージの要約を以下に紹介します。


 

〔ヨセフは兄弟たちに言った。〕命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45章5節) 

これまで数週にわたり、創世記に焦点をあてて、祈りの時を持ってきました。聖書の最初に位置する創世記は、次のような言葉で始まりました。

初めに、神は天地を創造された。(創世記1・1)

創世記の物語を読みながら、わたしたちは、神にかたどって作られた人間が〔罪を犯したために〕、〔神に対する〕責任を果たして生きることができなくなってしまったことを見ました。

しかし、神は、アブラハムとサラ、そして彼らの子孫を通して、ご自分の〔創造された〕世界を正しく戻すために、率先して行動されました。アブラハムとサラ、彼らの家族は、神を信頼するということが何を意味するのか、また、他の人々の祝福となるということは何を意味するのかを学ぶために、困難な道をも通らねばなりませんでした。

わたしたちはそれらの様子に目を留めながら、このたび、ヨセフに焦点をあてる創世記の終わりまでやってきました。

*****

ヨセフの物語を思い起こしてみましょう。

彼は、ヤコブとラケルの間に生まれましたが、十代になるまでいささか甘やかされて育ちました。そのために、彼は兄たちとのいざこざに巻き込まれました。兄たちは妬みにかられて、エジプトに向かう商人の一団にヨセフを売り渡してしまいました。17歳のヨセフは、〔エジプトの王〕ファラオの役人であったポティファルのものとなりました。

ヨセフが新しい環境に慣れてくると、ポティファルは彼を信用し、家全体を取り仕切る務めを与えました。しかしながら、〔またしても〕問題が起こりました。ポティファルの妻が、この賢い青年に対して人並み以上に関心を寄せるようになったのです。性的に言い寄る彼女をヨセフは拒みました。すると、彼女は夫に嘘をついて、ヨセフを訴えました。

〔無実の訴えによって、〕ヨセフは投獄されましたが、牢獄の中でも人々から信頼されました。そしてついに、ファラオに謁見することになりました。〔自分が見た〕夢の解釈で悩んでいたファラオは、ヨセフがその意味を確信に満ちて解き明かすのを聞きました。そして、彼をエジプト全体の農耕と財政の責任者として立てました。

*****

〔その後、ファラオのみた夢が意味していたように〕ひどい飢饉が起こり、ある一団が食料を求めてジプトまでやって来ました。彼らはヨセフに気が付きませんでした。しかし、ヨセフは彼らに気がつきました。彼らは、ヨセフの兄弟たちでした。

ヨセフはすぐには身を明かしませんでした。彼らがヨセフの弟〔ベニヤミン〕を連れてエジプトに〔ふたたび〕来た時に、ついに自分がヨセフであることを明かしました。ヨセフは涙を流して、兄弟たちに語りかけました。

わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。・・・今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45・4、5)

この出来事によって、ヨセフとすべての親族は、エジプトに移り住みました。そして、彼らは大きな民族となってゆき、創世記は閉じられていきます。

****

「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」というヨセフの言葉は、神について注目に値する洞察へと、わたしたちの注意を促します。

悲しみや悪はたしかに存在しますが、それでも神は、奥深いところにおいて、ご自身の目的を達成するために働き続けておられるのです。わたしたちは、そのように神が働かれることを、「神の摂理(せつり)」と呼んでいます。

もちろん、「神の摂理」という言葉をどのように使うかについては、よく注意しなくてはなりません。これはけっして、神が目的を達成するために、あえて悲劇的なことを引き起こされるという意味ではありません。〔たとえば、〕人身取引は〔人間によってもたらされた罪と悲劇であり、〕神の責任ではありません。また、神は人身取引の悲惨さに無関心ではおられません。

クリスチャンとしての視点に立って神の摂理を理解するためには、イエスの生涯、イエスの死と復活を通してそれを理解することが必要です。〔イエス・キリストの〕十字架によって、わたしたちは、神がこの世界の苦しみの只中(ただなか)に来られたお方であることを知ることができるようになります。〔イエス・キリストの〕十字架と復活という光に照らされることによって、わたしたちは、たとえ〔人間の目には〕隠された仕方であるとしても、神は静かに働き続けておられると言うことができるのです。

*****

神は、〔わたしたちの〕苦しみを知らないお方ではありません。神は、〔人間を〕操(あやつ)り、支配しようとはなさいません。神の摂理の御業、神が主権をもたれる御業は、〔神の〕愛から生まれます。それですからゆえ、使徒パウロはローマの信徒への手紙8章において、どのようなものも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と述べています(ローマ8・38)。わたしたちは、苦しみを知ってくださる三位一体の神に信頼しつつ、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」とパウロが語った言葉に心から加わるものです(ローマ8・28)。

ジョン・ゴワンズ大将は、神の摂理を知り、次のような歌を著しました。

暗闇に取り囲まれる時
戸惑いと恐れに取り囲まれる時
人に見放され裏切られたと感じる時
わたしが必要とする一つ一つのことは、
神の摂理の守りによって応えられる。
神の貴い聖霊が、わたしの祈りを聞いてくださる。
このわたしの祈りを。
(ジョン・ゴワンズ、英語救世軍歌集316番)

どうか、みなさんがそれぞれの人生において、神の摂理による守りを経験されるようにお祈りいたします。アーメン

この日も主と共に【111】主の恵みがあるように

あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。・・・
わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
(ローマの信徒への手紙16章16、20節) 

神さま、
あなたは、主イエスを通してかぎりない愛を示し、神の愛に結ばれて生きるようにと、わたしたちを教会(小隊)に集めてくださいました。主イエスの恵みを確かな土台として、互いに恵みを祈り合えることを感謝します。疫病、災害、対立や争いによって苦しみと不安が広がっている今の時にも、あなたの恵みの言葉がなお広く届きますように。わたしたちの小さい言葉と行いをもお用いください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/06/2020

この日も主と共に【110】神によって生まれる

しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
(ヨハネによる福音書 1章12、13節)

神さま、
あなたは、ご自分の「言(ことば)」として御子をお遣わしになり、けっして変わることのない愛を示し、共に生きよとわたしたちを呼んでくださいました。わたしを成り立たせているのは、自分が成し遂げたことやこの世の評価にはるかにまさる、あなたの大きな愛であると宣言できることを感謝します。あなたの愛の呼びかけ、救いの招きを聞き取り、お応えする歩みを導いてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/05/2020

この日も主と共に【109】平和の計画

わたしは、あなたたちのために立てた計画を
よく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。
(エレミヤ書29章11節) 

神さま、
あなたは、この世界を創造されたほどの知恵と力によって、わたしたちのために計画を立ててくださいます。あなたがわたしたちの過去、現在、将来に、善き御心をもって関わってくださることを感謝します。これまでの経験や今の状況から得られる教訓を大切にしながら、将来についてはあなたの計画に信頼し、自分の思いを越えることがあっても新しい一歩を踏み出す勇気と力をお与えください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

10/03/2020

この日も主と共に【108】奮い立つ者

いかに幸いなことでしょう
勝利の叫びを知る民は。
主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。
絶えず、御名によって喜び躍り
恵みの御業にあずかって奮い立ちます。
あなたは彼らの力の輝きです。
(詩編 89編16~18節)
 

神さま、
あなたは、わたしたち一人ひとりに御顔を向けてくださり、生きる道のりを照らしてくださいます。あなたが共にいてくださることを、喜びと力にして歩むことができますように。困難を覚えるときにも、あなたの御力によって支え、立ち上がらせてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/02/2020

ブライアン・ペドル大将によるメッセージ(9月27日のため)

ブライアン・ペドル大将によるオンラインで発信されたメッセージです。
(フェイスブック) 要旨を翻訳して以下に紹介します。

 

〔兄弟たちは…〕ヨセフを穴から引き上げ、
銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、
彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。 (創世記37章28節)

創世記の物語は、天地創造の黎明(れいめい)から神の贖いの御業の黎明(れいめい)へと、読む者を導いていきます。 

神は、人間がご自身を悲しませたにもかかわらず、恵みをもって彼らに臨み、彼らをあきらめることをなさいませんでした。 神はアブラハムとサラを召し出され、新しい未来を約束されて、彼らを故郷から導き出されました。そして、彼らの未来は、息子イサクの誕生というかたちで 実現していきました。さらに神の〔約束された〕未来はイサクの 息子、ヤコブの生涯において展開し、彼はカナンの地に定住するようになりました。 

創世記第37章は、「ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。」という言葉から始まります(創世記37・1、2)。※
そこから続く〔家族の〕物語は、〔人間のもたらす〕悲劇と、また、神の隠された摂理の働きの両方を伝えています。

***

ヤコブには12人の息子がいました。

問題となったのは、ヤコブが息子たちのうち、一人だけを他の11人よりもかわいがったことでした。ヤコブはヨセフに好意を示し、特別な服であった「裾の長い晴れ着」を与えました〔3節〕。わたしたちも承知していることですが、家庭の中での「ひいき」は災いをもたらします。 

そして、ヨセフ自身も、自分が〔兄弟の問題の〕原因になることを避けることができませんでした〔4~10節〕。彼は、兄たちの悪い素行を見つけては、父に告げ口をしました。また、彼は、自分が重要な存在であるということを暗示する夢を見〔たことを、 兄弟や父に悪びれずに話したために、兄たちの不興を買ってしまい〕ました。 

ヨセフが十代の若者になった、ある日のことです。父〔ヤコブ〕はヨセフを使いに出し、兄たちが言いつけられたように羊を飼っているかどうか様子を確かめに行かせました。兄たちは、ヨセフが近づいてくるのを発見し、ヨセフを排除する機会が来たと考えました。彼らはヨセフの袖の長い晴れ着をはぎ取り、水の無い穴に投げ込みました〔23、24節〕。 

さらに、彼らはある計画を思いつきました。それは、ヨセフを 殺してしまうのではなく、エジプトへ向かう隊商に売り飛ばすというものでした。そして、兄たちは、「ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に 売った」のでした〔28節〕。ヤコブの息子〔であったヨセフ〕は、兄弟たちによって、銀貨20枚に 替えられてしまったのです。ヨセフは捕らわれの身となり、エジプトへ連れて行かれました。そこで、ふたたび売られて、あるエジプトの役人のもとに行くことになりました。 

一方、兄たちは父ヤコブのもとへと帰りました。ヤコブは、衣服に獣の血が滲みついたヨセフの衣服を見せられ、悲しみのあまりに自分の衣服を裂き〔、愛する 息子ヨセフが死んでしまったと悲しみ〕ました。家族がなんとか慰めようとしましたが、ヤコブは彼らの慰めを拒みました。

***

世界中の救世軍において、この日曜日〔9月27日〕は、『人身 取引の犠牲者のための祈りの日』として計画されています。 

今日の世界における人身取引の規模は、計り知れないものです。わたしたちが想像もつかないような仕方で、犠牲者たちは苦しみを味わっています。人身取引と 戦うためには、多くの人々の応答を必要とします。 それゆえ、救世軍は、『自由のための戦い(Fight for Freedom)』という名称で、万国的な戦略を 立てています。

この日、わたしたちは、祈りにおいて『自由のための戦い』を開始します。現在の 奴隷制度というべき人身取引の犠牲となっている人々も、《神にかたどって創造された人々》です〔創世記1・27〕。それですから、わたしたちは神に向かって祈りたいのです。 

ヨセフの兄弟たちは、ヨセフから人間性を奪い、売り買いする 商品としてしまいました。現代の奴隷制度というべき人身取引も、子どもたちから、女性から、男性から人間性を奪い、あるいは、 人間の身体の一部を、代金を払えば手に入る品物にしてしまっています。それですから、わたしたちは犠牲となっている人々のために祈り、神が彼らを尊んでくださるようにと祈るものです。公正で、誠実な神に向かって祈ることから、『自由のための戦い』を 始めてまいりましょう。 

ヨセフの兄たちはごまかしを重ねて、父親の前から真実を隠してしまいました。人身取引もまた、目的を達成しようと、人を欺く 約束や手配を拠り所として〔行われて〕います。このような人間性に反する犯罪と戦うために、わたしたちがしなければならないことは多くあります。この戦いのためにわたしたちが努力するということは、〔旧約聖書〕ミカ書にみられる次のような《確信》を 表すということでもあります。 

何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し 
へりくだって神と共に歩むこと、これである。 (ミカ書6・8)

どうか、わたしと共に次の祈りに加わっていただきたいと思います。

愛する神さま、
今日、わたしたちは人身取引の犠牲となっている人々のために祈ります。
彼らは、歪んでしまった世界のなかで人間性を奪われ、
強欲と暴力とによって捕らわれています。
どうか、犠牲となっている人々が、
あなたのうちにあって〔神に創造されたものであるという〕尊厳を
回復することができますように。
そして、わたしたちも、犠牲となっている人々について、
あなたにかたどって創造されたものであると、
一人 ひとりの尊さを明確に述べることができますように。
不正の鎖が解かれ、抑圧されている人々が自由になるために、
わたしたちをお用いください。
人身取引という罪悪が終りを迎えますように。
人身取引の 犠牲となっている人々が、回復と癒しを、
あなたのうちに見出すことができますように。 アーメン

(訳 立石真崇) 

※本紙は、小隊における祈りの資料として、個人で訳出したものです。 日本語の読みやすさを考慮して日本語を補った箇所があり、〔 〕で区別しています。また、今回については、聖書の引用について、英語の区切りと日本語の区切りの違いから引用の範囲を変えたところがあり、※を付けています。

この日も主と共に【107】罪を覆われた者

いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
(詩編 32編1、2節) 

神さま、
あなたの愛に背を向け、あなたのもとから遠く離れていたとき、わたしたちは自分で多くのものを得ていると思いましたが、実際には罪と死を負い、深く傷つくものでした。しかし、あなたはなお、ご自身の愛をもって、そして、御子イエスの救いをもって、わたしたちを覆ってくださいました。あなたの赦しと回復を感謝します。御子イエスの聖さ、正しさ、愛を大切に心にまとい、歩ませてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

10/01/2020

この日も主と共に【106】土の器、しかし宝の器

イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光・・・
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。・・・
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
(コリントの信徒への手紙二 4章6~9節より) 

神さま、
わたしたちはもろさや欠け目を抱え、どのように装ってもやがて朽ちる土の器です。そのようなわたしたちの内に、あなたは、御子イエスを宝として与えてくださいました。死にも打ち勝ち復活された御子が、わたしと共に生きてくださることを感謝します。御子を通して、あなたの大きな愛と力に結び合わされて歩むものとしてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン