(創世記6章6節)
わたしたちはしばしば、大きな希望と期待を抱いて新しい冒険を始めます。学生は、良い成績を収めたいと希望をもって新学期を始めます。〔スポーツ〕チームは、優勝決定シリーズで試合をしようと希望をもって競技を始めます。親は、子供たちが栄えある人生を歩み、世界に役立つようにと希望をもって、彼らを育て始めます。初めて取り組む人々は希望に満ちています。しかしながら、わたしたちの誰もがよく知っているように、〔希望をもって始めても、〕自分たちが期待していたものとは違った道を歩むことになるかもしれません。
神は、ご自身が創造されたものに対してどのような希望を抱かれたのだろうかと思います。創世記第1章は、神による創造を伝えています。第2章では、神かたどって創造された人間に〔参照1・27〕、神は《境界》を設けられました。
主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。
善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう。」(2・16、17)
《境界》があるということは、《自由》が意味をなすためには必要不可欠です。神は、男と女を支配しようとはされません。男と女は神にかたどって創造されたからです。ただし、神はご自分と男女との間に信頼関係を築くために、《境界》を設けられました。
ところが、神に良いものとして創造された〔はずの〕生き物の一つ、蛇が、男と女を、〔神に対する〕信頼と従順の道からそれさせようと企んだのです。蛇は語りかけました。
園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。〔3・1〕
決して死ぬことはない。〔3・4〕
《誤った情報》は、人間社会にとって常に脅威となるものです。とりわけ、新型コロナウイルスに直面している今の時代においては、このことがあてはまります。
蛇は次のようにも主張します。
それを食べると、目が開け、
神のように善悪を知るものと
なることを神はご存じなのだ。〔3・5〕
「神は、あなたがたが知らないことを知っている。そのような神を、あなたがたはほんとうに信頼できるのか。」〔蛇の言葉を聞いた〕男と女は、禁じられていた〔木の〕実を食べたのでした。
そのときから事態は変わり始めました。男と女は、《責任のなすり合い》を始めました。彼らは、起きてしまった出来事に対して、個人の責任を負うことを拒んだのです。神が被造物に備えられた関係のすべてにわたって、亀裂が生じました。〔一体となったはずの〕男と女は、疎外し合うようになりました。人間と他の被造物は引き離されました。人間と神の間には不信が生まれました。家族、兄弟のなかに対立が生じ、暴力にまで至りました。〔創造された世界に対して抱いておられた〕神の希望は、〔神への信頼を止めた〕人間の現実に突き当たりました。
創世記の冒頭の数章では、神についても学ぶことができます。主なる神は、〔証拠なしに〕決めてかかることはなさいませんでした。そして、「あなたはどこにいるのか」とお尋ねになりました。そして、恵みによって、〔神に背いた男と女の〕恥を覆うための新しい衣を用意されました〔3・20〕。〔人間に〕裁きをくだすことは、神の本意ではなかったかもしれませんが、神はたしかに裁き主として立たれます。しかし、裁きにおいてさえもなお、神は、ご自分にかたどって作られたもの〔である人間〕のために将来を探し求めてくださいました。
〔しかし、〕わたしたちは人の営みが砕け散っていくありさまをたどり、ついに創世記が次のように述べる決定的な場面に至ることになります。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
(創世記6・5、6)
重ねて言います。創造者〔である神〕は、わたしたち人間と信頼し合う関係を持とうと希望をもって、この世界を始められたのです。その神が心を痛められた。人間の悪のゆえにです。神の御心は、神にかたどって作られたものたちによって傷つけられたのです。この事実に心を留めましょう。
ゴワンズ大将とラーソン大将が作った歌が、わたしたちの理解を助けてくれるでしょう。
わたしたちの神は、
遠く離れた、よそよそしい、
感情の無いお方ではない。
わたしたちの孤独や痛みを見落とすお方ではない。
人々の働きを通して、
神はご自分の癒しを与えてくださる。
神に身を献げる人々の手によって、
希望はふたたびもたらされる。
(ジョン・ゴワンズ、英語版 救世軍歌集10番)
〔訳注・日本の救世軍歌集116番
「人に理解してもらえず」2節にあたる〕
キリスト教の信仰に関して、もっとも大切な洞察の一つは、神は創造者、救い主でおられますが、人間の行いによって心を動かされるお方でもあるということです。神は、わたしたちとの間に距離を置こうとはなさらないからです。自分の子供たちが誤った道を選んでしまったときに痛みを負う父母のように、神も〔人間のために〕ご自身が痛まれるのです。夢に破れ、心傷つく学生のように、神は夢を失うことがどういうことなのかを理解し、また、感じられます。聖書を通して知る神は、御心を痛めることができる〔ほどに人間と深く関わり、愛そうとされる〕神なのです。
しかし、神は御心を痛められてもなお、被造物に心を注ぎ続けられます。人間を愛するために、神はなお危険を冒し続けておられます。イザヤ書に記された御言葉に耳を傾けましょう。
再び地上にノアの洪水を起こすことはないと
あのとき誓い 今またわたしは誓う
再びあなたを怒り、責めることはない、と。
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
しかし、わたしの慈しみは あなたから移らず
わたしの結ぶ平和の契約が 揺らぐことはないと
あなたを憐れむ主は言われる。
(イザヤ書54・9、10)
創世記の冒頭に描かれる神は、傷つき痛みを負われる神です。この傷を負われる神の姿の極みこそは、ナザレの人、イエスの生涯であり、彼の死と復活でした。神が痛みを覚えるほどに〔わたしたちを〕愛しておられる、どうかその恵みを見出すことができますように。アーメン
※小隊における祈りの資料として、個人で訳出しました。〔 〕は翻訳上、日本語を補った箇所です。