【説教要旨】
神戸小隊 聖別会
2020年9月6日(日)
ルカによる福音書17章22~37節
「神の国の現れる日」
Ⅰ 「今」と「これから」を見つめる生き方
9月最初の日曜日を迎えました。先週は防災の日(9月1日)にちなんで、防災を考えるニュースや番組に多く接しました。そのなかで個人的に心に留まったのが、「ローリング・ストック」という言葉でした。それは、災害が起きた時のために食品を買いためておき、定期的に備蓄品を確認して、一部を使い、使った分を買い足していくという取り組みです。これによって、日頃から緊急時の備えを身近に意識して過ごすことができるということでした。
今年は、新型ウイルスが、災害ではないものの同じように、世界的に深刻な影響をもたらしています。また、海外ではバッタが大量に発生し、大群となって植物を食べ尽くして移動する蝗害(こうがい)を起こしています。あるいは、猛暑・水害・大型台風といった極端な気候の変化も見られます。将来に備えながら今を過ごすことが大切であることを、あらためて思います。
しかしまた考えてみると、「今」と「これから」を見つめる生き方を、キリスト教会はすでに知っているということもできます。神の御子イエス・キリストが人となってこの世に来られ、わたしたちの救いを成し遂げてくださいました。そして天に昇られ、やがてふたたび来られると約束されました(再臨)。現在と将来が結び合う生き方を、イエス・キリストはわたしたちに与えてくださいます(参照 ヘブライ13:8)。
Ⅱ イエス・キリストの受難と再臨
イエスさまは、宗教家の集まりのひとつ、ファリサイ派の人々と語られました(20、21節)。彼らは、神さまがこれからどのように御業を現わされるのかに関心を寄せ、「神の国」という言葉を使ってイエスさまに質問をしました。
これは、弟子たちとっても心ひかれる内容であったと思います。当時、イエスさまの評判は広がり、高まっていました。そのままいけば、イエスさまの弟子として栄誉に与かる将来も描けるような状況でした。
そうしたときに、イエスさまは弟子たちに向かい、話を掘り下げて語られました(22~35節)。その際、イエスさまは、旧約聖書で「救い主(メシア)」を象徴する言葉である「人の子」という表現をご自分に使われました(22、24、25、30節、参照 ダニエル7:13)。また、「神の国」に対応するように「人の子の日」、「人の子の現れる日」という言葉を使われました。神さまの救いの御業の中心となるお方として、ご自身を示されたのです。
しかし、そこで掲げられたのは、栄光ではなく、苦しみでした。
人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。(25節)
「必ず・・・(する)ことになっている」という表現は、神さまが定めておられる事がらを指します。イエスさまはすでにご自分の苦しみと死について予告されましたが(9:22、44)、あらためてそれが「神の国」のために、「救い主(メシア)」として引き受けるべきものであることを示されました。
イエスさまに苦しみと死が定められているということは、何を意味するでしょうか。
一つは、イエスさまを拒否するということは、神さまの愛を拒否するということです。それほどまでに人間が神さまと断絶し、神さまに反していることが表れています。しかしまた、イエスさまが苦しみと死を避けることなく受けてくださることによって、神さまがこの世界を見捨てず、人間を救うという、神の強い救いの意思、深い愛も表されました。イエス・キリストの受難と死、さらに三日目の復活は、わたしたちの罪を明らかにし、それだけでなく、そのわたしたちを愛し、救われる神を示しています。わたしたちのために苦しみ、死なれ、復活されたイエス・キリストのもとに、神の国(神の支配)があります。
Ⅲ キリストと共に今も、これからも
イエスさまは、ご自身の苦しみと死の予告と共に、「人の子」が現れる様子を「電がひらめいて、大空の端から端へと輝くよう」であるとも述べておられます(24節)。それは、この世の時や空間に妨げられることなく、神の御子、救い主としてのまことに栄光に輝く姿をもって、イエスさまとふたたびお会いできる将来があるという意味です(参照 9:32)。これがキリスト者、教会が将来について与えられている希望です。
今は、わたしたちはイエスさまを肉眼では見ることができません。しかし、小隊・教会の礼拝において、わたしたちは神の御子、救い主であるイエスさまの輝きを知ることができます。「世の光」として、イエスさまは今すでに、わたしたちの心と人生を照らしてくださるのです(参照 ヨハネ8:12)。イエス・キリストを見上げて、このお方が開いてくださった人生の道をご一緒に歩みを続けてまいりましょう。
・・・すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。(ヘブライ人への手紙12章1~3節)