10/28/2020

ブライアン・ペドル大将によるメッセージ(2020年10月25日のため)

ブライアン・ペドル大将による聖書からのメッセージが、インターネット(Facebook)で公開されました。以下に要旨を翻訳し、紹介します。 

 

主に向かってわたしは歌おう。・・・
主はわたしの力、わたしの歌 
主はわたしの救いとなってくださった。
(出エジプト記15章1、2節) 

この数週、わたしたちは、『出エジプト記』を読んでいます。 

『出エジプト記』は、〔エジプトの王〕ファラオの圧政に苦しむ〔イスラエルの〕人々の様子から始まります。しかし、神は彼らの苦しみをよくご存知であり、救いの御業を開始されました。神は、遠く離れた地で羊飼いをしていたモーセを召して、イスラエル人を抑圧の中から導き出すために、彼をエジプトへと戻されました。 

ファラオとのさまざまな対決を経て、ついにモーセとイスラエル人は神の命令を受け、〔エジプトを〕去ることとしました。ファラオは彼らを捕らえようとし、紅海〔葦の海〕まで迫りました。そこで、神が行動を起こされました。創造者〔である神〕が作られた世界、 すなわち水、風、大地の諸力が、奴隷〔であったイスラエル人〕を解放するために役立てられました。 この〔神による〕解放の結果、イスラエル人は、「主を畏れ、主と その僕モーセを信じた」のでした(14・31)。 

抑圧者の驚異から助け出されたとき、イスラエル人のしたことは注目すべきものです。 

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。 主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し・・・わたしの救いとなってくださった。(1、2節) 

自分たちの自由が実現したときに、イスラエル人が最初に行ったことは、神を賛美して歌うことだったのです。アーメン! 

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救世軍人も、自分たちを救ってくださった神を賛美するために、日曜日ごとに集まります。実際のところ、このしばらくは共に集まることができない時期を過ごしており、わたしたちの声はいくぶんか小さいかもしれません。しかし、このパンデミック〔新型ウイルスの世界的大流行〕によって、わたしたちに自由をもたらしてくださる神にささげる賛美が減ってしまったということはけっしてありません。 

歌うことは、わたしたちの世界において、解放をもたらす運動の重要な一部を担ってきました。

〔たとえば、〕南アフリカにおける自由のための運動〔訳注・人種隔離政策への反対を訴える運動〕においても、歌うことが伴っていました。また、アメリカ合衆国における 公民権運動においても、歌うことが大切な役割を果たしました。 この運動はマーチン・ルーサー・キングが指導者となって行われたもので、当時の国や権力による人種差別に対して反対するものでしたが、その抗議が歌うことによって表明されました。 

音楽は、ものごとを動かす力があります。音楽は、ゆらぐことのない神の愛と正義を推し進めるのです。

救世軍は、豊かな音楽の伝統を引き継いでいます。それは、とくに救世軍の歌集に表れています。これらの歌を握りしめて、わたしたちは何年にもわたって神を賛美し続けてきたのです。 

神への賛美においては常に、 新しい賛美を生み出す創造的な力(クリエイティビティ)が必要です。わたしたちには音楽が必要です。共に歌うことが必要です。今の 時代においても、神を賛美する ことが必要です。そのようにして、わたしたちは現代の抑圧に対抗していくのです。わたしたちは 主〔なる神〕をたたえます。主が わたしたちの救いとなってくださったからです。 

***** 

『出エジプト記』の15章を読むときに、わたしは、この賛美の 歌の中にじつにたくさんの神のイメージ(心象)が描かれていることに感銘を受けます。

神は、 「いくさびと〔戦士〕」です(3節)。神は、群れを導く羊飼いです(13節)。神は、新しい地に人々を 植え付ける農夫です(17節)。

そして、19章において、神は次のようにイスラエル人に語られました。 

あなたたちは見た 
わたしが エジプト人にしたこと 
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて 
わたしのもとに連れて来たことを。(19・4) 

神は、鷲の母鳥のようなお方です。雛(ひな)が空を飛べるようにと巣から押し出す〔ようにして、人を新しい境地へと向かわせられる〕のです。 

ここで、救世軍のなかで指導の働きを担っている人々にお伝えしたいことがあります。

みなさんが長年にわたって礼拝について取り組んでこられたときに、どのようにして、聖書に数多く記されている神のイメージ(心象)を 取り上げようとしてこられたでしょうか。

そうです、聖書に啓示されている神〔のイメージ〕と真実に共鳴するものであるならば、 現代のイメージを用い〔て、現代の人々が神をよりよく知ることができるようにす〕る余地はまだ残されています。

ただし、わたしたちの 礼拝の《深み》は、〔人間の表現方法によるのではなく、あくまでも〕 聖書に記されている神、わたしたちの救いである神のイメージをさまざまに探求するなかで生まれてくることでしょう。 

***** 

もう一つ心に留まることがあります。

出エジプト記15章の賛美の歌は、《個人の賛美》であるとともに、《共同体の賛美》でもあるということです。

2節に次のように述べられています。 

主はわたしの力、わたしの歌 
主はわたしの救いとなってくださった。(2節) 

また13節では次のように述べられています。 

あなたは慈しみをもって贖われた民を導き 
御力をもって聖なる住まいに伴われた。(13節) 

それと同じように大切なことは、出エジプト記15章の賛美は、《男女が共に歌う賛美》であったということです。

この賛美はモーセに言及するところから始まりますが〔1節〕、終わりにはモーセの姉、ミリアムに言及しています〔20節〕。ミリアムは、救世軍のタンバリンのようなすばらしい楽器を手にしていました。そして、他の女性たちにも加わるようにと招きました。彼女たちは一緒にタンバリンを手にして踊り、 主が「大いなる栄光を現」されたと〔20、21節〕、主に向かって 賛美をささげました。 

わたしたちが集まる礼拝も、 女性、男性、子どもたちが共に 集まるようにと招く礼拝です。 そして、わたしたちの救いである神を共にたたえるようにと招く礼拝です。世界の各地において、民族・言語・文化・音楽表現も異なる環境の下、〔神を賛美するために〕救世軍人が共に集まっています。 

わたしたちを愛し、助け出してくださる神に向かって、わたしたちは賛美をささげます。

どうか、〔これまでもそうであったように、〕 これからも主に対して、共に賛美をささげるものでありたいと願います。

アーメン