ブライアン・ペドル大将が、フェイスブックを通して発信されたメッセージの要約を以下に紹介します。
〔ヨセフは兄弟たちに言った。〕命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45章5節)
これまで数週にわたり、創世記に焦点をあてて、祈りの時を持ってきました。聖書の最初に位置する創世記は、次のような言葉で始まりました。
初めに、神は天地を創造された。(創世記1・1)
創世記の物語を読みながら、わたしたちは、神にかたどって作られた人間が〔罪を犯したために〕、〔神に対する〕責任を果たして生きることができなくなってしまったことを見ました。
しかし、神は、アブラハムとサラ、そして彼らの子孫を通して、ご自分の〔創造された〕世界を正しく戻すために、率先して行動されました。アブラハムとサラ、彼らの家族は、神を信頼するということが何を意味するのか、また、他の人々の祝福となるということは何を意味するのかを学ぶために、困難な道をも通らねばなりませんでした。
わたしたちはそれらの様子に目を留めながら、このたび、ヨセフに焦点をあてる創世記の終わりまでやってきました。
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ヨセフの物語を思い起こしてみましょう。
彼は、ヤコブとラケルの間に生まれましたが、十代になるまでいささか甘やかされて育ちました。そのために、彼は兄たちとのいざこざに巻き込まれました。兄たちは妬みにかられて、エジプトに向かう商人の一団にヨセフを売り渡してしまいました。17歳のヨセフは、〔エジプトの王〕ファラオの役人であったポティファルのものとなりました。
ヨセフが新しい環境に慣れてくると、ポティファルは彼を信用し、家全体を取り仕切る務めを与えました。しかしながら、〔またしても〕問題が起こりました。ポティファルの妻が、この賢い青年に対して人並み以上に関心を寄せるようになったのです。性的に言い寄る彼女をヨセフは拒みました。すると、彼女は夫に嘘をついて、ヨセフを訴えました。
〔無実の訴えによって、〕ヨセフは投獄されましたが、牢獄の中でも人々から信頼されました。そしてついに、ファラオに謁見することになりました。〔自分が見た〕夢の解釈で悩んでいたファラオは、ヨセフがその意味を確信に満ちて解き明かすのを聞きました。そして、彼をエジプト全体の農耕と財政の責任者として立てました。
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〔その後、ファラオのみた夢が意味していたように〕ひどい飢饉が起こり、ある一団が食料を求めてジプトまでやって来ました。彼らはヨセフに気が付きませんでした。しかし、ヨセフは彼らに気がつきました。彼らは、ヨセフの兄弟たちでした。
ヨセフはすぐには身を明かしませんでした。彼らがヨセフの弟〔ベニヤミン〕を連れてエジプトに〔ふたたび〕来た時に、ついに自分がヨセフであることを明かしました。ヨセフは涙を流して、兄弟たちに語りかけました。
わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。・・・今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(創世記45・4、5)
この出来事によって、ヨセフとすべての親族は、エジプトに移り住みました。そして、彼らは大きな民族となってゆき、創世記は閉じられていきます。
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「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」というヨセフの言葉は、神について注目に値する洞察へと、わたしたちの注意を促します。
悲しみや悪はたしかに存在しますが、それでも神は、奥深いところにおいて、ご自身の目的を達成するために働き続けておられるのです。わたしたちは、そのように神が働かれることを、「神の摂理(せつり)」と呼んでいます。
もちろん、「神の摂理」という言葉をどのように使うかについては、よく注意しなくてはなりません。これはけっして、神が目的を達成するために、あえて悲劇的なことを引き起こされるという意味ではありません。〔たとえば、〕人身取引は〔人間によってもたらされた罪と悲劇であり、〕神の責任ではありません。また、神は人身取引の悲惨さに無関心ではおられません。
クリスチャンとしての視点に立って神の摂理を理解するためには、イエスの生涯、イエスの死と復活を通してそれを理解することが必要です。〔イエス・キリストの〕十字架によって、わたしたちは、神がこの世界の苦しみの只中(ただなか)に来られたお方であることを知ることができるようになります。〔イエス・キリストの〕十字架と復活という光に照らされることによって、わたしたちは、たとえ〔人間の目には〕隠された仕方であるとしても、神は静かに働き続けておられると言うことができるのです。
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神は、〔わたしたちの〕苦しみを知らないお方ではありません。神は、〔人間を〕操(あやつ)り、支配しようとはなさいません。神の摂理の御業、神が主権をもたれる御業は、〔神の〕愛から生まれます。それですからゆえ、使徒パウロはローマの信徒への手紙8章において、どのようなものも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と述べています(ローマ8・38)。わたしたちは、苦しみを知ってくださる三位一体の神に信頼しつつ、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」とパウロが語った言葉に心から加わるものです(ローマ8・28)。
ジョン・ゴワンズ大将は、神の摂理を知り、次のような歌を著しました。
暗闇に取り囲まれる時
戸惑いと恐れに取り囲まれる時
人に見放され裏切られたと感じる時
わたしが必要とする一つ一つのことは、
神の摂理の守りによって応えられる。
神の貴い聖霊が、わたしの祈りを聞いてくださる。
このわたしの祈りを。
(ジョン・ゴワンズ、英語救世軍歌集316番)
どうか、みなさんがそれぞれの人生において、神の摂理による守りを経験されるようにお祈りいたします。アーメン