【説教要旨】
神戸小隊 聖別会
2020年10月25日(日)
コヘレトの言葉9章1~12節
「命は神の手の中にある」
Ⅰ 実りの季節を迎えて
10月も終わりに近づきました。小隊の訪問で郊外に出たときに、稲刈りを終えた田んぼやコスモス畑を見ることができ、秋の実りや季節の移り変わりを実感しました。
今年は新型ウイルスの感染が広まり、その影響が今も続いています。緊張や不安が拭えない暮らしが続いています。それでも、わたしたちがこれまで生かされてきたことを思います。また、今このときにも、すべての命を創造し、愛しておられる神さまが確かにおられて、わたしたちの命に関わりをもってくださっていることを思います。
どうか、聖書の言葉と祈り、小隊(教会)の交わりを通して、神さまの命の営みのなかをご一緒に歩み続けたいと願います。
Ⅱ 死を覚えつつ、生きることを喜ぶ
『コヘレトの言葉』の著者(コヘレト、集会の中で語る者という意味)は、「空しい」という言葉をくりかえしながら、この世界や人間のありさまを見つめ、生きる意味を考えています。
コヘレトの言葉9章1~12節においては、次の点に注意を促されます。
第一に、人はみな「同じひとつのこと」、すなわち死という結末が待っています(1~6節)。
ただし、コヘレトにとって死の深刻な問題は、それが肉体の活動が停止することにとどまらず、人の心にも感化を及ぼし、むしばむものだからです。
太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。(3節)
コヘレトはまた、死の領域である「陰府」が、「仕事も企ても、知恵も知識も」ない状態であるとも語ります(10節後半)。
今年、新型ウイルスによって、これまでの知識や習慣では対応しきれない状況が多く生じてことを考えるとき、現代もまた死が影のようにつきまとい、力をふるっていると言えるのではないでしょうか。
しかし、第二に、それでも人は神さまによって、「今このとき」を喜んで生きる道があります(7~10節)。
さあ、喜んであなたのパンを食べ 気持よくあなたの酒を飲むがよい。 あなたの業を神は 受け入れていてくださる。 どのようなときも純白の衣を着て 頭には香油を絶やすな。 太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい。 それが、太陽の下で労苦するあなたへの 人生と労苦の報いなのだ。(7~9節前半)
パン、酒、純白の衣、香油など祝宴のイメージに重ねて、生きる喜びを味わう姿が描かれています。神さまを信じる人は、死を覚えつつ、その上で、人生を喜ぶことを知るというのです。それは、「神はすでにあなたのわざをよみせられたから」です(7節、口語訳)。わたしたちの信じる神さまは、ご自分を信頼する者たちが生き、働くことを、喜ばれるお方です。
それですから、コヘレトは、「すべてあなたの手のなしうる事は力をつくしてなせ」と呼びかけます(10節前半、口語訳)。たとえ、『これをしたところで何になろう』と空しさが迫るとしても、災いや危険がふりかかるとしても(11、12節)、喜びをもって生きる道は閉ざされていません。
コヘレトは、彼自身が振り子のように心が揺れる姿をそのまま記しながら、神さまが人を命に向かわせるお方、生きる方向に向かわせるお方であることを伝えています。
Ⅲ イエス・キリストに結ばれて生きる
コヘレトは、今日の箇所に至るまでにも、人生を喜び楽しむことを折々に語ってきました(2:24、25、5:17~19、8:15)。
それらとくらべて、今回注目されるのは、「愛する妻と共に生きるがよい」という勧めが含まれていることです(9節)。(2018年に出版された聖書協会共同訳では、「愛する妻と共に人生を見つめよ。」)
人生の空しい日々さえ、愛する妻と共に見つめて生きるならば人生の喜びに通じる。神さまを信頼して生きる喜びは、神さまが与えてくださる人との出会い、人との関係を生きる喜びにもつながっています。
そして今や、わたしたちは、コヘレトが言う「妻」のような人生のかけがえのないパートナーとして、イエス・キリストと出会いました。
キリスト者(クリスチャン)は、イエスさまと結び合わされた人たちです。ご自身を犠牲にするほどのイエスさまの愛によって、自分自身が新しく作られていく喜びを知った人たちです。わたしたちの命を、人生を空しくさせるような事態を見せられながら、それでも主イエスと共にその日々を見つめ、さらにその先にある神の御業を見つめて生きていく。そのような生きる喜びの場がイエスさまのもとに、また、イエスさまを頭(かしら)とする小隊(教会)にあります。
わたしたちはくりかえし、神の喜びの場に立ち返り、そして新たに歩み出してまいりましょう。
キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった
・・・キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、
教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
・・・わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
(エフェソの信徒への手紙5章25~26、30節)