ブライアン・ペドル大将がFacebookを通して、ビデオメッセージを発信しました。
その要旨を以下に紹介します。
主はモーセに言われた。 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」 (出エジプト記16章4節)
みなさんは、過去のことをどれくらいよく覚えておられるでしょうか。
ほとんどの人は、ある種のレンズを通して見るようにして、過去をふり返ります。なかには、過去に起きた良いときをよく覚えていて、苦しいときはあまり覚えていないという人もいると思います。しかし、過去のつらいことが多く思い出されるという人もいます。それには多くの場合、とても正当な理由があります。
このような〔過去を思い起こす〕傾向は「選択的記憶」と呼ばれます。選択的記憶は、個人だけに関わるものではありません。人々の集まりや国についてさえも起こりうるものです。
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わたしたちは『出エジプト記』を読み進んでいますが、イスラエル人の「選択的な記憶」が、彼らのモーセに対する反応、また、 神に対する反応に影響を及ぼすまでにさほど時間はかかりませんでした。
かつては「奴隷のヘブライ人」であった彼らは、ファラオ〔エジプトの王〕の圧政から解放されました。彼らは紅海〔葦の海〕を 渡り、シナイ山に向かって荒野を旅しました。荒野まで来ると、 豊かな作物も、実のなる木も見つけられません。そして飢えが襲ってきました。食糧が不足し、人々はモーセとアロンに不平を述べました。
あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている (3節)。
このとき、イスラエル人の記憶にあったのは、捕らわれて抑圧されていたことではなく、自分たちの食卓にあった食べ物でした。 まさに「選択的な記憶」だったのです。
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〔そのとき〕神は、モーセが 手を挙げて質問するのを待つことさえなさいませんでした。
主はモーセに言われた。 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」(4節)。
神がイスラエル人のために 天から降らせたパンは「マナ」と呼ばれました。
じつは、この「マナ」という 言葉そのものが、『それは何ですか?』という疑問文なのです。
わたしは料理が得意ではありませんが、ある程度の食事を支度することはできると思っています。しかし、台所にやって来た 妻が、皿に盛られた料理を見て、 『ブライアン、それは何?』と 言うときがあります。それを聞くと、わたしは、〔自分が料理したものは何かを〕知ってはいるのですが、『そう、その通りだよ。 これは天から降ってきたマナ 〔これは何〕だよ。』と言いたくなるのです。
朝の露が蒸発したとき、イスラエル人は「薄くて壊れやすいもの」が霜のように地面を覆っているのを発見しました〔14節〕。それは何だったでしょうか。そうです、マナでした。その日一日のために神が与えてくださったものです。マナは、その日のために十分な 量がありました。
ただし、彼らは安息日にマナを探すことを禁じられ、六日目の うちに二倍の量のマナを集めました。それによって、イスラエル人は、安息日にあたる七日目に、食物についても神に信頼することを学ぶようになりました。食物を与えてくださる神を信頼することを学んだのです。
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わたしたちがキリスト教の信仰を学ぶ中で難しいことの一つは、「日毎の訓練 Daily Discipline」と呼ばれるものです。 わたしたちは、息を飲むような神の救い御業、また、驚くほどの力強い神の御業には心を奪われがちですが、今日という日のために必要な〔神に対する〕信頼と 〔神に従う歩みを養う〕訓練については見落としてしまうことがあります。わたしたちは、神が まず目の前にある一日について、わたしたちの必要を満たしてくださるお方であることを見失ってしまいやすいのです。
キリスト者として、わたしたちは『主の祈り』を祈るようになりました。この祈りにある願いの 一つは、神が「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という願いです(マタイ6・11)。 ただし、日ごとの食物を願うこの祈りが、『わたしたちに・・・与えてください』という、共同体の祈りであることに注目しましょう。 わたしたちの世界のある地域では、日ごとの食物を手に入れることが困難です。
このパンデミック〔新型ウイルスの世界的大流行〕の中、多くの人に日ごとの 食物が提供されることも、神の 恵みの御手が差し伸べられているしるしです。それはまた、わたしたちの食卓に食物が届くために、多くの人の犠牲的な働きが あることのあらわれでもあります。農作業に従事する移民の人々、食品を加工する業者、車で配達する人、店の在庫をみて仕入れる 店員など、多くの人々が今も働いています。
救世軍人たちも、食料のない人々に食料を届けるために懸命に働いてきました。救世軍の小隊や地域センターの中には、フード・バンク〔食品の寄贈を募り、困窮している家庭に届ける働き〕を設置しているところもあります。 神が〔人間の必要を満たすために〕備えてくださるということは、〔同時にまた、神を信頼する〕 わたしたちに〔神の備えを人々に届けるという〕奉仕の務めがあるということでもあります。
どうか、今日この日のために 神が備えていてくださる恵みを見出すことができますように。 そして、この日についての人々の必要が満たされるために、わたしたちが神の恵みを表わしていくことができますように。
偉大なる主よ、
わたしを導いてください、
この荒涼とした地を通る 巡礼の旅を。
わたしは弱い者です。
しかし、あなたは力のある お方です。
あなたの強い御手で、 わたしを抱きしめてください。
天からのパンによって、
天からのパンによって、
今も、これからも永遠に、
わたしを養ってください。
(ウイリアム・ウイリアムズ、 英語救世軍歌集27番)訳注・日本の救世軍歌集では、267番「ちからのみ神よ」、 1節にあたる。