11/29/2020

ブライアン・ペドル大将によるメッセージ(11月22日のため)

ペドル大将がインターネット(Facebook)から
発信された聖書メッセージ 

要旨を以下にご紹介します

  

雲は臨在の幕屋を覆い、 主の栄光が幕屋に満ちた。 (出エジプト記40章34節) 

今回で『出エジプト記』による祈りの時をしめくくりたいと思います。 

この書物は、神が人間を〔神の民として〕ご自分に似たものとするために、どのように働かれたのかを伝える、注目すべきものでした。

 この書物の始まりでは、イスラエルの民がファラオ〔エジプト王〕の非道な支配によって抑圧されていましたが、終わりでは自由の身となって生きるものとなります。また、この書物の始まりではファラオのために都市が建設されますが、終わりではイスラエルの民が神を礼拝するための「幕屋」が建設されます。

出エジプト記第29章をみると、神は次のように語られました。 

わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。(出エジプト29・45、46) 

幕屋は、天地万物の創造主である神が宿られる場所でした。 

イスラエルの民は、わたしたちもまた承知しているように、宇宙を創造されたお方が、人間の建てた幕屋に宿られることなどあり得ないと知っていました。しかし、神は恵みとして、奴隷から解放された人々〔イスラエル〕と会うための場所〔幕屋〕を選ばれました。 

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出エジプト記が強調していることは、幕屋の建設が、神の指示に完全に従って行われたということです。それとともに、人間の理解力や熟練した技術も、幕屋の建設のために用いられました(参照 36・1)。人々は強制されてではなく、喜びと自発的な心によって幕屋を建てました。

出エジプト記第35章には次のように記されています。 

モーセを通じて主が行うようお命じになったすべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た。(35・29) 

ファラオの工事監督が労働を強制したのとは対照的に、イスラエルの民は、自由の中で聖なる幕屋を建てました。彼らは神の救いの恵みについて理解するようになり、その恵みに対して自由に応答したのでした。

出エジプト記の最後の章では、幕屋が完成したときに、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」と記されています(40・34)。神の栄光が、荒れ野において、人間の手によって建てられた幕屋を満たしました。 

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さて、出エジプト記の物語の中心人物はモーセでした。 

彼は幼い頃、ナイル川から引き上げられ、エジプト王家の恩恵を受けて育ちましたが、同胞であるヘブライ人〔イスラエル人〕と共にあることを選び取りました。命が助かるために逃げなければなりませんでしたが、柴の燃える場所において神とお会いしました。その場所でモーセは、神が自分の人生に目的を持っておられること、神に召されていること〔召命〕を知りました。

〔モーセに対する〕召命は、人々を抑圧するような権力と対決することを意味しました。そして、かたくなな人々を指導することを意味しました。また、神と顔と顔を合わせて語り合うことも含まれていました。神の民〔イスラエル〕のために神に執りなす勇気も必要としました。

神はモーセをよく知られ、また、彼が行うことを知られました。彼の人柄を知り、信頼されました。 

荒れ野で四十年を過ぎた後、イスラエルの民が約束の地にまさに入るところまでに至ったことが『申命記』に記されています。その〔申命記の〕終わりの部分において、神はモーセを高いところに連れていかれ、将来について 彼に教えられたことが記されています。 

主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」(申命記34・4) 

モーセは、神の〔考えておられる〕将来を見ましたが、彼自身はその将来に向かうことはできませんでした。彼は〔越えられない〕境界線と向かい合わなければなりませんでした。 

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『詩編』のなかで一つだけ、モーセによるものとされている詩編があります。詩編第90編です。

今、モーセがネボ山の頂に立っている様子を思い浮かべてみましょう。彼は〔自分が越えられることがないと分かった〕境界線を目の前にしながら、詩編第90編に収められているような祈りをささげました。

わたしたちの神、主の喜びが わたしたちの上にありますように。 わたしたちの手の働きを わたしたちのために確かなものとし わたしたちの手の働きを どうか確かなものにしてください。(詩編90・17) 

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モーセは、自分の働きを神に委ねました。そして、神が自分の働きを受け取り、確立してくださるように祈りました。また、神がその働きを強め、ご自分のすばらしい目的に仕えるものとなるようにと祈りました。 

モーセのように、わたしたちも、自分に対する《召命》として担ってきた働きをもはや続けることができないというような《境界線》に至ることがあるでしょう。そこに至るまでには、さまざまな理由があることでしょう。しかし、それは、わたしたちの働きが終わってしまうという意味ではありません。モーセと同じように、わたしたちもまた、自分の働きを神の御手に委ねることができます。

解放を与えてくださる神が、わたしたちの働きを確立し、強め、そこに神の祝福を与えてくださるように願い求めましょう。神が「わたしたちの手の働きを・・・確かなもの」にしてくださると信頼しましょう。アーメン 

(訳 立石真崇) 

※本紙は、小隊における祈りの資料として、個人で訳出したものです。 日本語の読みやすさを考慮して日本語を補った箇所があり、〔 〕で区別しています。