【要旨】
神戸小隊 聖別会
2020年11月1日(日)
ルカによる福音書18章15~23節
「神の国に入る人はだれか」
Ⅰ 神の家族へと招かれるイエスさま
新型ウイルスの対応のために、礼拝・集会のプログラムについて、新しい工夫が続いています。
この秋、救世軍ではインターネットを利用して、各地から賛美を持ち寄る『音楽祭』が行われることになりました。
神戸小隊からも参加を申し込み、賛美の動画を作成しました。今年の救世軍のテーマソングを、いろいろな楽器の伴奏に合わせて歌いました。また、現在、小隊に集うことが難しい方々がおられることを思い、昨年と今年の小隊の様子を撮影した写真を動画に収めました。歌を録音するときには、ちょうど帰省中であったご家族や生後数ヶ月の赤ちゃんも参加して、一緒に歌うことができ、わくわくする思いで過ごしました。
聖書は、イエス・キリストによって、神さまのもとに集められた人々、すなわち小隊(教会)の姿を「神の家族」と表現しています(エフェソ2章19節)。その聖書の御言葉が生き生きと心に思い起こされました。
今回、ご一緒に賛美に心を合わせ、アイデアを出し合い、それぞれの役割を受け持ち、協力ができたことは有意義な経験でした。それとともに心に留めたいのは、イエスさまが、わたしたち一人一人の心に働きかけ、賛美に向かわせてくださったということです。
「神の家族」は、人間が掲げる理念ではありません。小隊(教会)で親しい人が増えたから、神の家族だというのでもありません。イエスさまが「神の家族」となるようにと、わたしたちを招いてくださいました。こからもイエスさまの招きを受けとめ、お応えすることによって開かれていく道をご一緒に歩みたいと思います。
Ⅱ 子供と神の国の教え
イエスさまを訪ねてさまざまな人がやって来ましたが、「乳飲み子までも連れて来た」人たちがいました(15節)。その理由は、イエスさまに「触れていただくため」でした。これは神さまの祝福を祈ることを意味しています。乳飲み子の将来を思い、神さまの祝福が何より必要であると考えた大人たち(おそらく両親か親類)がいました。彼らはイエスさまを信頼し、イエスさまによる神の祝福を願ったのでした。
しかしながら、乳飲み子とイエスさまの間に道を通そうとする大人がいた一方で、その道を遮ろうとする大人がいました。それはイエスさまの弟子たちでした。多忙な先生を支えようという、彼らなりの思いやりであったのかもしれません。しかしその結果、自分の価値観で人を判断してしまう誤り、自分の信仰心でイエスさまと人との出会いを妨げる誤りを犯してしまいました。
このやり取りを見ていたイエスさまは、弟子たちを制し、乳飲み子たちを呼び寄せられました。そして、この機会をとらえて神の国について教えられました。
子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(16、17節)
イエスさまが「乳飲み子」、「子供」を例にして強調されるのは、《徹底して信頼し、受け取る姿》です。
この点は、ルカがこの出来事の前後に書き記す、(たとえに登場する)ファリサイ派の人(11、12節)、金持ちの議員(18~23節)の姿と比べると、よりいっそう際立ちます。ファリサイ派の人も金持ちの議員も見た目には信仰熱心でしたが、結果として、神さまと共に生きることができませんでした。それは、神さまに信頼するよりも、神さまに対して自分を証明することに関心があったからです。
これに対して「乳飲み子」は、自分自身の力では生きていくことができません。命も体も生活もみな、まったく人の手にゆだね、相手の愛がなければ生きていくことはできません。
神さまと人間の関係も同じだと、イエスさまは教えられます。神さまに愛され、受け入られる姿にこそ、まことに人間らしい姿、人間らしい生き方がある。そのように生きてゆきなさいと、イエスさまは招いてくださいました。
それはまた、イエスさまをこの世界に遣わされた神さまご自身の御心でもありました。
耳を傾けて聞き、 わたしのもとに来るがよい。 聞き従って、魂に命を得よ。
(イザヤ書55章3節)
このようなイエスさまの招きは、十字架の死にまで続きました。イエスさまの十字架は、わたしたちのための神の愛を示し、救いの約束を示しています。十字架は、イエスさまの招きのしるしです。
Ⅲ イエスさまの招きに応えよう、 ただ神さまに信頼して生きよう
イエスさまは今も、わたしたちを新しい人生へ、「神の家族」へ、神の国へと招いてくださいます。小隊(教会)は、イエスさまの招きを聴き、お応えする集まりです。また、イエスさまの招きを伝えていく集まりです。
どうぞ、ご一緒にイエスさまのもとに集い、神の国の始まりに立ち、喜びをいただいて出発したいと願います。
悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2章38、39節)