【説教要旨】
聖別会 2020年11月8日(日)
ルカによる福音書18章18~30節
「神によって可能となること」
Ⅰ 何に関心を向けるのか
先日、人間の心と体に関する、ある学びに参加しました。その主題は、“人間の注意力”に関するものでした。
話を聞いて興味深かったのは、『人間がものを見る時は、じつは、“見たいもの”を選んで見ている』ということでした。『人間の注意の仕方には違いがあり、そのために、みな同じものを見ていても受けとめかたが異なる』というのです。(このような注意の仕方の違いを利用した遊びが、柏寿会でもよく楽しんでいる“まちがいさがし”だそうです。)そして、人間の注意の仕方の違いをふまえて設備・道具を整えることによって、社会や暮らしの安全を高めることができると学びました。
この話を聞いて、わたしたちの人生にも通じるものがあるように思いました。
わたしたちは同じもの見て生きているように思いがちですが、じつは、何を注意して見ているか、また、どこに焦点を合わせているかによって、世界も生きる営みも大きく変わるのではないかと考えさせられました。
聖書は、そのようなわたしたちにイエス・キリストを示します。そして、このお方に焦点を合わせる時にこそ、見えてくる世界、人生があると、告げています。
Ⅱ 金持ちの議員とイエスさま
イエスさまのところに、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができる」か知りたいとう、ある金持ちの議員がやってきました(18、23節)。
彼には地位も財産もあり、誰からみても申し分のない暮らしをしていました。しかし、「永遠の命」の確証、すなわち、神さまに認められ、地上の命を越えても、いつまでも祝福を受けて生きられるという確証を欲していました。人生には自分の努力だけでは獲得できない、何か大切なものがあることを感じながら、どうすればよいのか見えなかったのです。
イエスさまはこの議員に向かい合われ、
① 人間の善行に関わらず、神こそ唯一の善いお方であると示し(19節)、
② 旧約聖書の掟(十戒)、とくに行いに関わる掟(第5~9番目)によって、人生をふり返る時を備えられました(20節)。
そして、③ 「わたしに従いなさい」と招かれました(22節)。
その際、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分け」るようにと語られましたが、これは“取引条件”ではなく、「天に富を積む」ためです。イエスさまは、議員の心が地上における自身の成功ではなく、天に、すなわち神さまのもとあるようにと、招かれたのでした(参照 12章34節)。
しかしながら、議員は財産を手放すことができませんでした。これこそが自分の人生の実り、天からの祝福と考えていたからです。彼は非常に悲しみながら、とうとうイエスさまの招きに応答することができませんでした(23、24節)。
そのありさまをご覧になって、イエスさまは語られました。
財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(24、25節)
この議員の姿は、自分の人生をどのように見つめているのか、何を大切に考えているのかを、わたしたちに問いかけます。
財産があり豊かであることは幸いです。しかし、それらは神さまの恵みであっても、神ではありません。わたしたちの人生の究極的な保証は、別のところにあるのです。
Ⅲ 神さまが可能にしてくださる人生
財産のある者、すなわち神に祝福されていると思われる人でも、神の国に入ることは難しいというイエスさまの言葉は、居合わせた人々を困惑させました。
しかし、イエスさまは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われました(27節)。
それは“人間が救われること”を指しています。
神さまを見失い、めいめいが欲するところに心を向け、同じ世界にいながら共に生きる道を見いだせず、自分たちに対して『どうして救われるだろうか』と望みを失う、わたしたちのただ中に、神さまはイエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。
神の御子が幼子としてお生まれになるという、まことに小さな一点から、神さまは、すべての人が救われるという大きな御業を実現されました。
それですから、わたしたちに必要なのは、イエス・キリストに心を向け、このお方の招きに応答することです。このお方を知る時に、わたしたちは神さまの愛を知ります。このお方の後に従って歩む時、わたしたちの歩みは、天に心を定める歩みとなります。
小隊(教会)は、イエス・キリストにわたしたちの人生の焦点を定めるところです。そして、このお方に従いながら、神に救われ、受け入れられている喜びをともに見出していくところです。
家族や財産も、自分の人生の価値を証明する手段ではなく、それらを神さまの御手にゆだね、神さまの大きな可能性のなかで生きていくようにと、イエスさまは、今も、わたしたちを招いておられます。
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。 (フィリピの信徒への手紙3章7~9節)