(2022年5月7日、Facebookにより配信)
ウクライナから街が破壊されている映像が届くと、わたしは平和を切実に願います。みなさんも同じだと思います。
各国の首脳も協議をしていますが、わたしたちは国家間の平和の道が開かれることを切望しています。
この数ヶ月の出来事によって、わたしたちは、キリスト者として平和についてあらためて考えようにと促されています。その際に大切なことは、平和についてはさまざまな理解があることをふまえ〔た上で、平和につい〕て考えるということです。
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クリスマスの出来事、イエスの誕生の物語が思い起こされます〔ルカ2章1~14節〕。マリアとヨセフは、ローマ皇帝の勅令により、〔住民登録のために〕ナザレの住まいからベツレヘムまで移動しなければなりませんでした〔1、2節〕。
イエスがお生まれになったのは、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる、ローマ帝国が支配する世界でした。それは多くの点で平和でしたが、強制的な平和でもありました。
そのような中、「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をして」いました〔8節〕。すると〔主の天使と天の大軍による〕天の歌声が彼らを驚かせました。
いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ〔14節〕
ローマ皇帝の平和。
そして、飼い葉桶で生まれた、か弱い子供の平和。
これらには大きな違いがあります。
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「平和」とは、しばしば「争いがないこと」であると理解されています。
〔たとえば、子供が賑やかにしている〕若い両親は、家の中が片付かないのを止めようとして、『ほんの数分でいいから、この辺で平和になって、仕事をさせてもらえないか』と言うことがあります。
このような理解に立つと、世界の平和とはすなわち、平和条約を締結して、国家間の紛争を解決することを意味します。〔もちろん、〕そのような意味での平和はとても大切なことです。
しかしながら、聖書は、平和をたんに争いが無いこととして理解するのではなく、もっと命を与えるものとして理解しています。その理解には、健康、満ち足りた人生、誠実な人間関係などが含まれます。
このように平和をより建設的に理解するならば、わたしたちは考えや行いの指針を得ることができるでしょう。
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イエスが公の働きを始められた時、平和を体現すること、また、平和を人々に提供することを始められました。
たとえば、シモンというファリサイ派の人と食事をしたとき、一人の女性が食事の席に入り込み、香油をイエスの足に塗ってもてなしました〔ルカ7章36~50節〕。その彼女に対して、イエスは「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました〔50節〕。
〔訳注〕「安心して行きなさい」ということばを、英語の聖書では「Go in peace」(平和の中を行きなさい)と訳している。
それからしばらくして、イエスは旅をしておられましたが、「群衆が周りに押し寄せて」くる中で、ある女性のために足を止められました〔ルカ8章42~48〕。この女性は病気のために「汚れた存在」とみなされ、他の人たちと距離を置かなければなりませんでした。しかし、イエスの服に触れたとき、彼女の体に癒しが訪れました。彼女に対してイエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました〔48節〕。
〔訳注〕ここでも「安心して行きなさい」とういう言葉、英語の聖書では「Go in peace」が登場している。
〔イエスとの関係の中によって、また、イエスの言葉によって〕赦しと癒し〔が女性たちの人生に実現しました〕。この二人の女性は、地域社会の生活に復帰していきました。どちらの場合においても、その結果は「救い」と呼ばれています。そして、どちらの場合においても、救いの特徴の一つとして「平和」が現れています。
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救世軍は近年、『平和に関する国際的見解表明』を発表しました。その文章において、わたしたちは、「すべての人々が、すべての関係において、公正で、持続可能で、満ち足りた生活につながる平和を経験することが、神の御心である」と信じることを表明しています。
わたしたちはウクライナの紛争終結を祈りつつ、救世軍として自分たちにできる思いやりの行いを通して、平和を実現する者となることを目指したいと願います〔参照 マタイ5章9節〕。
わたしたちは、この使命を遂行するにあたり、アシジのフランシスコの祈りに心を合わせましょう。
主よ、わたしたちをあなたの平和の道具としてください。
小隊や個人の祈りの手引きとして、ブライアン・ペドル大将がインターネットで発信されたメッセージを翻訳し、紹介します。日本語の読みやすさを考慮して日本語を補った箇所があり、それについては〔 〕で区別しています。(訳 立石真崇)