【説教要旨】
神戸小隊 聖別会
2020年10月11日(日)
ルカによる福音書18章9~14節
「神に受け入れられる祈り」
Ⅰ 信じること、祈ること
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。・・・
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。
わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
(詩編123編1~3節)
『小隊(教会)は何をするところですか?日曜日に出かけていって何をするのですか?』という質問があるときに、どのような返事ができるでしょうか。
いろいろな言い方があると思いますが、大切にしている答えのひとつは、『わたしたちは小隊(教会)で祈ります』ということです。すると、ときにはこのような感想もあります。『クリスチャンになる人は、そんなに“お願いごと”があるのですか!』
もちろん、わたしたちの祈りには“願い”も含まれます。しかし、祈りは、それだけではありません。聖書は、わたしたちにとって“祈ること”は、神さまに作られたものの姿、まことに人間らしいあり方だと伝えています。“祈り”は、神さまと共に生きることそのものなのです。
Ⅱ 「二人の祈り」のたとえ
ルカによる福音書において、イエスさまは、弟子たちにたとえを用いて、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えられました(18章1~8節、やもめと裁判官のたとえ)。
そして、さらに別のたとえが続きます(9~14節、ファリサイ派と徴税人のたとえ)。
当時、“敬虔な人”の代名詞であったファリサイ派の人と、“罪びと”の代名詞であった徴税人が、それぞれ祈ったという話です。
ファリサイ派の人は、神さまに感謝を捧げました(11、12節)。その感謝の理由は、聖書の掟(律法)を守ることができない“罪びと”とくらべて、自分が信仰をよく実践しているということでした。たしかに、「週に二度断食」、「全収入の十分の一」の献げものは、聖書の定める以上の行為でした(参照 レビ記16:29、申命記14:22、23)。
それに対して、徴税人は、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈りました(13節)。これは深く悲しんでいる様子を表します。そして、ただ「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」と祈ったのでた。
これらの二人の祈りを示しながら、イエスさまは言われました。
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、
この人〔徴税人〕であって、あの
ファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(14節)
「義とされる」とは、神さまに正しいと受け入れられる、神さまと正しい関係にあるという意味です。神さまと正しい関係に入れられたのは、ファリサイ派の人ではなく、徴税人だったというのです。
ファリサイ派の人は確信に満ちて感謝を口にしました。しかしよくみると、それは自分と他人を比べ、自分で自分に合格を出し、神さまに報告するものでした。自分の証明になってしまっていたのです。
これは、わたしたちにとっても大切な教訓です。『なるほど、わたしは注意して、このようなファリサイ派の人のような祈りにならないぞ』と安心するならば、結局は、同じなのです。
イエスさまはこのたとえを「自分は正しい人間だとうぬぼれて(口語訳、自任して)、他人を見下している人々」に対して語られました(9節)。自分で自分自身を判断し、評価し、証明する心や生き方からは、神さまに届き、神さまと共に生きる祈りは生まれません。
徴税人が祈った「憐れんでください」という言葉には、「罪の償い」という意味合いがあります。彼は、ただ気の毒に思ってくださいというのではなく、壊れた関係が回復され、和解することを願いました。しかも、神さまご自身に願ったのです。もはや自分の力では、神さまに顔が向けられない、神さまのもとに帰ることさえもできない自分を認め、『あなたの憐れみ、あなたの赦しだけが、わたしが生きる望みなのです』と、自分の一切を神さまにゆだねたのです。イエスさまは、この祈りを神さまが聞かれ、徴税人を新しく生かしてくださったと語られました。そして、これが、わたしたちにも与えられている祈りなのです。
Ⅲ わたしの命は神さまだけによる
ローマ・カトリック教会では、信仰の営みとして“ゆるしの秘跡”、“懺悔(ざんげ)”を大切にしています。プロテスタントにおいても、礼拝様式を整える伝統に立つ教会は、“罪の告白と赦し”を含む礼拝を捧げます。その際には、『キリエ・エレエイソン(主よ、憐れみたまえ)』という歌詞の賛美を歌われることもあります。
わたしたち救世軍の場合は、『恵の座』の祈りを大切にしています。『恵の座』は初期には『悔い改めの座』とも呼ばれていました。また、『恵の座』は、設備としては小隊の礼拝堂にありますが、わたしたちは同時に、『心の中に恵の座を持つ』という表現でお互いの祈りを育んでいます。
わたしたちも、神さまの憐れみがあるからこそ、今、生きています。神さまのかぎりない愛と赦しを受け、新しい命に結び合わされて、神さまの作品として生きることができるのです。神さまの憐れみをご自身の憐れみとして、この世に来られ、ご自身を捧げてくださった神の御子、わたしたちの救い主イエス・キリストがいてくださるからです。これからも、このお方の御名によって共に祈り、歩んでまいりましょう。
神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
(詩編51編3、4節)
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、
主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。
(イザヤ書55章6、7節)